―――それは、いつもと同じ朝だった。
そろそろ涼の来る頃だな。
棚からコーヒーカップを取り出し、出来たての珈琲を注ぐ。
いつの間にか、遙のカップの横に当たりまえのように置かれていた涼のカップ。
それはまるで、遙の心の奥に不遠慮に土足で踏み込んで来て、そして当たりまえのように・・・彼がいなければ、もう自分はもう生きて行けないと思えてしまうような存在になってしまった涼自身のようだった。
ふふっ。
遙は思わず、思い出し笑いをしてしまった。
あの頃は、必死だったのだ。
目立たないように。
だが、必死に守り通してきたモノを、いとも簡単に剥いでしまった彼。
彼は、本当にまっすぐで。
長年、一人で思い悩んでいたことも、その強引さで簡単に看破してしまった。
彼の輝きは、眩しくて。
思わず、目を逸らしそうになった。
けれど、暗闇の中に閉じこもっていた自分に射した一筋の光だったのだ。
自分は、最後のチャンスだとその光に縋り付いた。
そして、今の自分がある。
過去・現在・未来・・・全てを諦めていた自分が生まれ変わる最後のチャンス・・・ソレが彼だった。
・・・まさか、こんなコトになるとは思わかなかったけれど。
首筋を這う、彼の唇。
『愛してる、遙』
与えられる、言葉。
何時の間に、彼の割合がココまで大きくなってしまったんだろう。
彼が、自分を暗闇から助けていくれたから、好きになったのでは・・・決してないのだ。
それとは関係なく、彼に惹かれたのだから。
彼が自分を見つめてくれる、あの優しい眼差し。
失って、自分は正常に息が出来るのだろうか?
ピンポーン。
チャイムが鳴る。
涼?
遙は、少し疑問に思いつつドアに向かった。
涼はいつも、ドアを3度叩いて、自分から入ってくるのだ。
チャイムを鳴らしたことなど、一度もない。
「は・・・」
開けかけたドアが、強引に開かれる。
そして、目の前には、見知らぬ男。
「桜庭遙さんですか」
「あの、貴方は?」
男は無言で、名刺を差し出した。
知らない名前。
名刺の左上に会社のマークと下に『芙蓉グループ』という小さな文字。
芙蓉・・・グループ。
よく、テレビCMで聞く名前だ。
だが、それが・・・?
「私の雇い主である人間が、貴方に是非会いたいと」
男の言葉は、遙には甚だ疑問で・・・。
「僕は、貴方の雇い主を知らない。僕に何の関係が?」
遙の言葉に、男は厳かに真実を告げる。
「私の雇い主は、芙蓉グループのTOPに君臨する方だ。そして、君の母親の一番上の、兄に当たる。」
「・・・・母の。」
父と母の結婚を反対した、母の実家の人々。
唯一味方だった、既に芙蓉の家を勘当になっていた3番目の兄を頼りに、駆け落ちした、母。
・・・事件の後、一切連絡などしてこなかったのに。
母が入院しても、そして亡くなったときでさえ・・・一切連絡など。
今更・・・・・・・・・・何を。
「貴方の伯父が、面会を求めているのです。」
「嫌、だと云っても・・・」
「なんとしても、来て頂きます。」
否を認めない男の言葉に、遙は従うしかなかった。
キッチンには、温かいコーヒーが残されたまま。
アパートのドアは、閉じられた。
・・・お城のようだ。
遙は芙蓉の豪邸を見ながら、一人ごちた。
母は、こんなお城のような所で、育ったのだろうか。
遙の記憶がある限り、自分たちはそれは小さなアパートに住んでいた。
その日のご飯に、困るときさえあったのに。
母は、どう感じていたんだろうか。
通された広い客室で、遙は窓から庭を見ながら、母を思った。
遙の目からみても、美しい母だった。
手は、荒れていたけど・・・。
夜中まで内職をして、何時もクマが取れなかったけど・・・。
それでも、美しかったのだ。
子供の時から、何一つ不自由なくこの家で暮らしたのだろう。
それを、全て捨てさせるほどの人だったのだろうか・・・父は。
父の記憶は、遙の中では曖昧だ。
所々途切れていたりする。
本当に小さい頃は、よく遊んでくれていたり・・・したような気がする。
だが、大きくなるにつれて、罵られている記憶しかない。
『お前と―――のコドモだろう』
父は、あの時なんと云っていたのだろう?
そう、だ・・・アレは・・・
考えがまとまろうとしていたところで、背後に気配を感じ、遙は振り返った。
そこに立っていたのは、一人の男。
男は、遙に近付くと、己の右手で遙の顎を捕らえ自分の方に向かせた。
「なるほど、祥子にそっくりだな・・・。」
男の口調は驚くほど、冷たい。
「あの男に似てないのだけが、幸いだ。」
「あの・・・貴方、は?」
遙の言葉に、男は遙の顎から手を離すと、スッと目を細めた。
「私はお前の伯父である、芙蓉遙士だ。」
・・・ヨウシ
何処かで・・・。
聞いた・・・
名前・・・・・
ああ・・・・・・・!!
キーンと頭の中に大きな音が響き渡り、
遙の目の前が真っ暗になった。
「お、おい・・・!」
男の声が遠くで聞こえる。
だが、その声に答えることは、もはや出来なかった。
遙はそのまま、その場に崩れ落ちた。
―――ああ、そうか・・・母さん。
『来てくれたのね、遙士兄さん』
いつも病室で待っていたのは・・・いつも、俺を見ながら見ていたのは・・・
―――そうだよね、父さん。
『お前と遙士のコドモだろう』
貴方の態度が急変したのも・・・。
涼、もう・・・君には逢えないよ―――
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