「遙、おはよう」
涼は遙の頬にキスをして、おはようの挨拶をする。
―――遙の反応は、全くないのだが。
遙は今、涼の家にいた。
「遙は、俺が連れて帰ります。あなたの側に置いておけないっ!」
遙の手を上からしっかり握り、涼は遙士に宣言した。
一分一秒でも早く、この場から連れ去りたかった。
「何を言っている、部外者が」
遙士は馬鹿にしたように、涼の言葉を一蹴した。
―――だが、その遙士を阻んだものがいた。
「貴方こそ、部外者ですよ。遙士兄さん」
一歩出たのは、芙蓉家3男省三だった。
「省三。この家を出て行ったお前に、何の権限がある」
「貴方こそ、祥子が出て行ってから何をしましたか? 私は家をでた祥子の家族を援助し、そして家族を失った遙の後見人でもある」
冷静に兄の言葉に反論する省三に、遙士は苛立ったようにその言葉を遮った。
「遙は、私の子だ。祥子と私の―――!」
「それが・・・? 遙は戸籍上祥子とあの男の子供だ。貴方は伯父でしかない。伯父である貴方に、遙を縛る事は出来ない。私は遙の後見人だ―――遙の為を思って言わせて貰う」
言葉を切った省三は、涼に向き直った。
「君に、遙をお願いしたい。先ほどの、遙の反応に私はかけたい。私は藁にでも縋る気持ちなのだ。そして、唯一の希望が・・・君だと、私は思う」
涼の言葉に、唯一反応した遙。
「遙の・・・あの天使の笑顔がもう一度見る事が出来るのならば、私は何でもしよう」
輝く天使の微笑み。
祥子―――そして、遙の微笑み。
「私からも、お願いしたい。遙の伯父として―――」
「敬二っ!」
沈黙の中から口を開いたのは、芙蓉家次男の、敬二だった。
遙士の叱咤の声を無視して、敬二は続ける。
「祥子の・・・二の舞はしたくない。あの子を失った時の悲しみは―――もう、耐えられない」
敬二にとっても、祥子は天使だった。
彼女が微笑んで『敬二お兄様、お疲れ様』そう言ってくれただけで、どんなにキツイ仕事も出来た。
この家を出てしまった時の焦燥感。
何度も迎えに行こうと思ったが、兄の目に負けて出来なかった己の弱さ。
そして、事件を知った時の絶望感。
―――どうして、迎えに行かなかったのだろう。どうして・・・。
もう二度と、あの微笑みを見る事は叶わない・・・。
目の前に横たわる、遙。
祥子の忘れ形見。瓜二つの顔。
彼には、幸せになって欲しかった。
あの微笑をもう一度―――見たかった。
「私も」
「わたくしも」
「わたくしもっ」
使用人たちが一気に口を開いた。
彼らとて、同じ気持ちだったのだ。
祥子の微笑み―――と遙の微笑みを重ね合わせていた。
祥子を失ったと知った時の悲しみを重ね合わせていた。
どうか、遙だけは―――と。
「わたくしからも、お願いします。旦那様、遙様はどうか彼の元に・・・」
執事長の三島も頭を下げた。
「どいつも、こいつも・・・!」
遙士は苛立ちに舌打ちをした。
「医者として言わせて頂きます。わたくしも、遙様はこの方の側にいるのが一番よいと思われます。唯一反応した方ですから―――どうか」
白衣の男の言葉に、遙士は「もういいっ!」と叫んだ。
「東雲の息子。遙を連れて行きたければ、連れて行けばいい。だが、私は今度は諦めない。遙が目覚めた時―――私は取り返すからな」
涼を見据えた遙士の目付きは、男の目付きだった。
十数年前―――祥子を奪おうとした男に向けたモノ。
「渡しませんよ。遙が望まない限り―――」
涼の不敵な言葉に、遙士はフンッと笑うと「出張先の戻る」と一言残して、部屋を出たのだった。
涼は一時も遙を手放したくなくて、遙を自分の家に連れて行くと言った。
それには流石に、省三も敬二も止めた。
他人の―――しかも、芙蓉とは何かと争っている東雲の本家なのだ。
省三の家に遙を置いて、いつでも会いに来るという形ではダメなのか? と、遙の伯父は何度も涼を説得してきた。
だが、涼は引かなかった。
両親も説得すると。彼の側から離れなくない―――と。
結局、二人は涼の熱意に折れた。
涼の家族さえOKを出すのなら、それに任せようと・・・。
涼は、次に、両親の説得にかかった。
なんと言っても、涼は扶養家族だ。
未成年であり、両親に養ってもらっている身なのだ。
たとえ、父親に一つの会社を任されて稼いでいるとは言っても。
当然の事ながら、両親は反対した。
父は、彼が芙蓉という事で。
母は、他人を背負い込むなんて・・・と。
だが、涼は諦めなかった。
必死だった。
今の遙を自分の元から離せない―――と。
全てに冷めた目をしていた息子の変貌に、両親は驚いた。
そして、二人は耳を傾けた。
長男であり既に東雲を動かしているもう一人の息子、槇の言葉をも聞いた。
槇は芙蓉との関係の事を考え渋面を作りながらも、一度懐に入れた遙の姿に、涼と共に両親の説得にあたってくれたのだった。
長男と次男の言葉に、結局両親は折れた。
「遙さんが・・・!」
「なんて、事なんだ―――」
涼の二人の親友は、遙に起こった事を聞き言葉を失った。
「オレに出来る事があったら、何でも言ってくれ。オレに出来る事ならなんでもする」
「僕達の前で、もう一度微笑んでくれる彼を見れるのなら―――」
親友達は、1人で闘っていた涼の支えとなった。
こうして、涼は遙を取り戻した。
遙は、学校を休学して涼の家で療養する事となったのだ。
藤華学園の学園長は、いつでも戻っておいでという言葉を、遙に向けた。
「遙、学校に行ってくるよ」
涼が学校に行っている間は、遙は専門の人間に見てもらっていた。
だが、遙が何処か怯えるような感じがするので、なるべく涼が自分で面倒を見るようにしている。
それは大変な事だったが、涼には苦痛ではなかった。
それに遙は、少しずつ反応を返してくれるようになっていた。
それが、涼の励みになっている。
手をギュッと握ると、握り返してくれる。
「愛している、遙」
だから、帰ってきて。
いつまでも、待っているから。
輝ける世界に。
もう、君を傷つけるものはいない。
もう、君を傷つけやしない。
そして、俺にもう一度見せて。
その眩しいほどの、天使の微笑みを―――。
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