楽園6
−後編−




「知って、いたのか――」
「ええ。私はずっと会長についてきましたので・・・」

 言われてみると、そうだ。
 あの男に、妻に隠しながら細かいフォローやら手続きが出来たとは考えられない。誰かがしなければ。
 その点、飯島は使える人間だったのだろう。
 実直無口であり、職務には忠実。
 己の主である忠雄の言葉なら、何でも従ったというのも肯ける。
 たとえ、主の愛人の面倒をみるという事でも。

「だから、昔から俺の面倒を見てきたってワケですか・・・」
「違うとは言い切れませんが、私の望みでもあったのです。咲子さんと共に貴方の成長を見るのは楽しかった」
 飯島は、ふっと笑った。
 その顔を見て、渚は悟った。

 ――飯島も、母さんの事が・・・。

 だから、この人はずっとずっと俺の面倒をみていたのか。
 あの男の命令だからだと。
 ずっと、敵だと。
 そう思っていたけれど。

 ――俺は、多くのことを誤解していたのかもしれない。

 知らなかった真実。
 知らなかった思い。

 それは、渚の根本を考えるきっかけとなったのだった。















『さすがに、瀬野本社に手を出したのはまずかったみたいだよ』
 次の日の朝、渚の家の電話が鳴った。
 それは、ケヴィンからで。
 開口一番、彼はこういった。

『今回の件は、失敗に終わりそうだ』

「どういう事だ? ケヴィン」
 驚きで答えた渚に、ケヴィンは苦笑交じりに答えたのだった。

「本社に手を・・・?」
『ああ。まぁ、一応目的は達したからいいんだけどね。色々手回しがあったみたいで、ウチの本社の方にまで話がいって、上層部からストップがかかったよ』
「上層部・・・?」
『上層部っていうか、ぶっちゃけ父なんだけどさ。君の兄上だっけ・・・基氏は、やり手だね。多方面から「お願い」をされてしまったよ』

 ――兄、が・・・。
 あの後、あの人は奔走したのだろうか。
 会社を守るために。弟が――息子が潰そうとしている会社のために。

『結局TOBで取得した株もろとも、瀬野商事に売る裏取引が成立したから。君が所有している株を手放しても無駄になるって話だ。それだけを言おうと思ってね・・・』
「そうか。ありがとう・・・。君を巻き込んだ話だったのに、結局失敗という形になるんだな、すなまい」
 ケヴィンには、『瀬野グループを手に入れないか?』と、話を持ちかけたのだ。
 手に入れる事は、不可能となったのだから、失敗としか言い様がない。
『いや、こっちが手を引いたってトコだしね。それに欲しい会社は頂いたっていっただろう? 製造関係で欲しかった瀬野のグループ会社の株取得は、君の協力もあって全て順調に済んだんだ。予定通りといったトコだよ』
 ケヴィンはケヴィンで、最初からそれが目的だったのだろう。
 彼だってビジネスマンだ。
 全ては計算で動いていたという事だ。
「それなら・・・いい。あとは事態を収拾させるだけだから――」
『渚――お前、こっちに来ないか?』
「え・・・?」
 突然の誘い。
 渚は驚いて言葉を返した。
『どうせお前、そっちで居にくい立場になるだろう? だったらウチの会社で・・・俺の片腕として働けよ。渚の実力は今回の事・・・いや、以前から知っていたんだから。俺としても信頼できるパートナーが出来るのは嬉しいし・・・』

 確かに、その通りだ。
 ああして、今回の買収劇に渚が絡んでいたことは、親類会議で堂々と宣言してしまったのだから、セノ・エンタープライズ社の社長として居続けることは、不可能だろう。
 元々、今回の事が終わったら辞表を叩きつけてやるつもりだったのだし。

「そう・・・だな。ありがとう、考えておくよ」
『いい返事、待ってるよ――』

 昔の友人は、優しい言葉を残して電話を切った。

 ――俺の復讐は、終わったの・・・か?

 父を頂点から引き摺り下ろし、義母を狂わせた。
 それが、成功というのなら成功なのかもしれないが。
 渚には単に大きな傷を残しただけの・・・空しいものとなったような気がしていた。












「大変です、渚様・・・!」
 瀬野本社で記者会見が行われてから3日。
 大きな事態が起こる事もなく、特に世間では報道される時間も少なくなってきていた。
 渚は、自宅謹慎という形で、会社には出所せず、辞表を出すタイミングを計っていたのだった。

「どうした、飯島・・・」
 マンションに飛び込んできた彼を、渚は驚きながら出迎える。
 こんな風に慌てている彼を見るのは、始めてかもしれなかった。

「明日発売の週刊誌に・・・貴方と基様も関係が掲載されます――。それどころか、今回の裏に貴方がいたことなど・・・全てが――」
「・・・な、に?」
 信じられない事を言う飯島に、渚は思わず聞き返した。
「緊急特別号というのと、本社がゴタゴタしていたせいでストップをかけれませんでした・・・しかし、誰が・・・」

 ――志野、だ。

 思わず渚は洩らしてしまった。動揺したまま、本家で何があったのかを。
 彼が、雑誌社に売ったのだ。情報を。
 金ではなく、瀬野を揺るがすために――。
「すまない、俺の責任だ・・・。きっと、志野だろう」
「志野が・・・? 彼が貴方を裏切るとは・・・」
 飯島と志野が合っていたとは思わない。
 だが、飯島とて志野の実力を認めていた。
 そして彼の、渚への忠誠も。
「お前は知っていると思うが、彼と俺は同志だった。瀬野という大きな敵へと反抗する。だが・・・先日の騒動のあと、俺たちは道を違えてしまったのだ。彼は徹底的に瀬野を潰したかった。そして俺はそれに肯く事ができなかった。その俺の甘さは、彼には耐えられなかったのだろう・・・」
「では、あの時――」
 飯島が駆けつけたとき、渚の躯の上に圧し掛かっていた志野。

『渚・・・俺は、許さないからなっ』

 あの時、飯島は何があったのかを渚に聞く事はしなかったが、そういう事があったのかと納得した。
「こうなってしまうと、もうどうしようもないですね。しばらく周辺がかなり煩くなると思いますが――」
「俺はいい・・・んだけど、和成達は――?」
 渚にとって心配な要因は、それだけだった。
 和成とその母の和美。
 二人が巻き込まれることだけは、避けたかった。
「二人は今日中に――ホテルへと移動されます。大丈夫ですから・・・」
「そうか・・・」
 ふと力が抜ける。
「しかし、騒動はもう・・・」
「ああ――」
 明日から、渚のまわりだけでなく瀬野全てが騒がしくなるだろう。
 渚が忠雄の子ではなく、長男の基の子であったこと。
 今回の騒動の裏側には、渚がいたこと。
 マスコミは面白おかしく書き立てる。骨肉の争いとして――。
 自分だけが犠牲になるならそれも仕方ないだろうと思うけれど、当事者である母のことまで事細かに報道される事が目に見えている。
「・・・、くそっ」
 己の愚かさに、渚は舌打ちした。

 ――お前は甘いんだよ。

 あの男の声が聞こえてくるようだ。
 判っている。
 判っていた。
 自分は最後に切り捨てられない事を。
 そしてその甘さこそが、傷つけたくない人を傷つけてしまうのだと――。

「とにかくしばらく、外出は控えてください。それとマスコミへのコメントは・・・」
「判ってる。何も言わないよ。俺からは・・・」
「お願いします」
 飯島はあわただしく出て行った。
 忠雄の秘書として、彼は一番忙しい人なのだろう。
 なのに、こうして渚を心配してくれるのだ。
 ――本当に俺は、何を見ていたのだろうか。
 何も見ていなかった。そう、何も。
 憎しみの対象である、忠雄以外何も見ないようにしていたのだ。
 だから、こうして周りの気遣いや暖かさに、全く気付かないでいた――。





『渚・・・』
 夜中に鳴った突然の電話。
「・・・兄さん?」
 それは、どう聞いても長兄の声だった。
『今、大丈夫か・・・?』
「ああ、俺は・・・」
 驚きのあまり声が出ない。
『今、お前のマンションの下にいる。開けてもらえるか?』
「え・・・」
 慌てて、セキュリティーをチェックする。
 画面に兄の姿が映っていた。
「セキュリティー切ったから、早く上がってきてください。マスコミは大丈夫なんですか?」
 こんな時間の訪問は、きっと基周辺と渚周辺を張っていたマスコミ対策でもあるのだろう。
 しばらくしてインターホンが鳴り、基の姿を確認した渚は扉を開けた。
「大丈夫ですか・・・?」
「ああ。マスコミは巻いてきたから」
 基は渚の薦めるがまま靴を脱ぎ、リビングへと足を向けた。

「・・・殺風景な部屋だな」
 ポツリと漏らした基の感想に、渚は苦笑する。
「寝に帰るだけの部屋ですから」
 そんな渚の言葉に、基は顔をしかめた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 しばらく沈黙が続く。
 今更、基に対して何を喋っていいのか・・・渚には判らない。
 それでも今回の騒動――志野の件に関しては完全に自分の落ち度だ。
「すみませんでした」
「・・・え?」
「今回のことです。飯島から聞いてもらっているとは思いますが、俺の軽率な言動で――」
「ああ、確かに軽率だったね・・・」
「・・・」
「しかし、お前は彼を信頼していたのだろう?」
「・・・ええ、そうですね。信頼していましたが、俺は彼の信頼を裏切ってしまったようです」
 渚が小さな溜息を吐くと、視線を落とした。
 そんな彼に、基は近づいてその髪の毛を撫でた。
「私は君が彼の信頼を裏切ってくれて嬉しかったよ・・・。志野は、瀬野を恨んでいた人間だろう?」
「ええ、そうです。彼の親の会社が瀬野のせいで倒産して――」
 言葉を濁す渚に、基は「調べたから知っているよ。彼や彼の両親の件は不幸な出来事だと思う。だが・・・」と言葉を繋いだ。
「それは、彼の両親が弱かったせいだ。瀬野はボランティア団体ではない。会社であり利益を追求すべき組織だ。彼の両親の会社を背負って瀬野自身が損失をこうむる事は出来ないんだよ。彼らをかばって、自社の社員達に不利益を与えるわけにはいかない。判るだろう?」
「ええ・・・」
「彼の両親の会社は、努力が足りなかった。瀬野のお抱え子会社として、言われた品を作るだけの会社になってしまい、企業努力というものを忘れてしまったんだ。だから同じ商品をもっと安い価格で作る工場が中国に出来た時点で、彼らは負けになってしまったのだよ――我らは、その時点で彼の会社を切るしかない。それが企業というものだ」
 基の言葉に、渚は肯くしかない。
 これが、上に立つものとしての当たり前の言葉なのだろう。
 結局自分は、研究家あがりの、視野の狭い見方しか出来ていなかったという事だ。
 そして志野は、瀬野に対して恨みを全てぶつける事で、救えなかった家族への罪の気持ちをそらし続けていたのだろう。

「だが・・・彼は凄い置き土産をしてくれたな」
 渚の隣のソファに座った基は、溜息とともにそう口にした。
「今日、雑誌の情報が本社を中心にグループ会社にも出回った」
「・・・ええ」
 基の言葉に渚も肯く。
 飯島が伝えてくれた後、渚に対する携帯は鳴りっぱなしだった。
 取引先の会社から、グループ会社の社長。
 親しい人間も多かった。
 ――全て、無視を決め込んだが。
「率直に言おう。確かに今回の件が明るみに出て、お前を排斥する動きが大きくなっている。それは判るな・・・?」
「まぁ、当たり前でしょう」
 瀬野を裏切ったのだ。
 たとえ、基の子だとしても――それは許される事ではない。
「だが、それと反対に――お前を押す動きもある」
「・・・俺、を?」
 驚きに渚は基を振り返る。
 渚の視線を受け止め、基は再び大きな溜息をついた。
「父は・・・あの人は大きなカリスマもあったが独断すぎた所もあった。そして、我が社の一族経営というのに反発を覚えているグループ会社も水面下では多い。いや・・・本社の社員の方が多いかもしれない。瀬野の血族というだけで、役職についている人間がいるのは、お前も知っているだろう」
「・・・ええ」
 無能な叔父をずっと目にしてきた渚だ。
 瀬野本社には、もっと大勢のそういう人間がいるのだろう。
「だからこそ、お前の存在は救世主に見えたようだ。お前が瀬野の一員ではあるが、真っ向から瀬野一族と対抗した事。そして、瀬野本社を窮地にまで追いつめた事――お前がTOPに立てば、変わるかもしれないと・・・」
「そんな話が――」
 そういう方面に話が転ぶとは思っても見なかった渚は、なんともいえない気持ちになった。
 瀬野さえ潰してしまえば、あとはどうでもいいと思っていた。
 未来など、考えていなかったのだ。
 そんな自分に未来を見て、全てを託そうしてくる人間が現われてくるなんて――。
「父が引退し、私が会長職につき、全ての瀬野を動かす事になる。そこまではいい。だが、私の跡継ぎだ。お前と和成・・・完全に対立する事になる」
「和成と・・・」
 和成と対立?
 自分があの愛すべき甥と・・・?
「お前達にその気が無くても、周りは許さないだろう。和美の実家は完全に和成を俺の後に据えるつもりで動いているし、たぶん母の親類達も和成側に付くだろう・・・」
「義姉さんの・・・?」
「和美自身は、まったくそういう事に興味の無い人間なのだが、和美の実家は・・・。私が自暴自棄になっていた頃、父の紹介で結婚した相手だったからな。要するに有力な取引先の娘だったんだよ、和美は。だからもちろん和美の子である和成を瀬野の跡継ぎにしようと、アレの実家は必死になってくるだろう」
 はぁ・・・と、基は何度目かの溜息をつく。
 先ほどから、溜息ばかりだ。
 それほどに既に裏での動きは活発なのだろう。
「お前と和成を争わせるなど・・・」
 苦渋の表情の基に、渚は自分の中でハッキリと自分の進む道が見えた気がした。

「俺は瀬野を継ぐ気はありませんよ」

「え・・・?」
 基は渚の言葉に彼を仰ぎ見ると、彼は微笑んでいた。
 穏やかな微笑み。
 それは、基が愛した人そっくりだった。
「色々と迷ってはいたんですが・・・決めました。俺はアメリカへ行きます」
「な、ぎさ――?」
 いつも無表情でいるか、険しい表情しかしなかった渚が、今――本当に穏やかに基を真っ直ぐと見つめている。
「ケヴィン・・・ブラナーが来ないかと誘ってきくれているんです、けれど――ブラナーに行く気つもりはありません。以前勤めていた研究所に――もう一度、戻れればと思っています」
「・・・・・・すまない」
 吹っ切れた様子の渚に、基は小さな声で謝った。
「何故、謝られるのです?」
「私はお前に『行く必要はない。私が何とかしてやる』とは、言えない。結局、私はお前を守れないで――」
「兄さん・・・」
 日本に戻ってから、ずっと彼の本意が判らないでいた。
 だからずっと疑った目で見ていた。
 だが彼は彼なりに、自分を守ろうとしていてくれたのかもしれない。
 それがたとえ、罪の意識から来たものだとしても。
 それは素直に――嬉しいと思える。
「俺は、和成を愛しています。彼は暗闇の中にいた俺にとって太陽で、唯一の救いだった。彼は常に日の当たる場所で歩いていて欲しい――。だから、彼を遮るものならば、たとえ自分だとしても俺は許せないのですよ。甥と思っていた彼が、血をわけた弟というのならば尚の事――俺が味わった骨肉の争いなど、彼には見せたくない・・・」
「渚、お前・・・」
 渚の言葉に、驚いて顔を上げる基に、再び微笑む。
 彼は知らないのかもしれない。
 彼の息子に、自分はどれだけ助けられたのかを。
 無邪気に何の裏もなく自分に懐いてくれた甥――母を失い絶望のふちにいた自分に、暖かいものを忘れた自分に、彼は・・・人としての暖かさを与えてくれたのだ。
 ――弱みを持ったら、勝負に勝てないぜ。
 再びあの男の言葉が脳裏に浮かぶ。
 言外に、和成への情は捨てろと・・・修羅の道を生きるあの男は渚にアドバイスしてきていた。
 和成への情は、瀬野への情へと繋がる。
 判っていたから、非情にになるつもりで、利用して捨てるつもりだったのに。

 結局俺は、捨て切れなかったらしいよ――博隆。

 こうして思う事は、やはり彼に――和成には笑っていて欲しいという事。
 思惑と反して、自分と対立させるなどという彼にとってつらい事など、させたくなかった。
 それに――。

「そんな顔しないでください。それに、俺は――俺も、瀬野を継ぎたいなどとは思いません。やはり、瀬野には憎しみの方が強いから・・・」
 そういう渚に、基はゆっくりと肯いた。
「――そうか。もう、決めたんだな。私は・・・今更私が言える立場ではないのは判っているのだが、お前には幸せになってほしい――と、いつでも、いつまでもそう思っている事を覚えておいてくれ。お前は私が望んだ子なのだ、と。咲子さんは、俺の願いを叶えてくれたんだ・・・」
「・・・母が?」
 基の口から出た母の名前に、渚はピクリと反応する。
 そんな渚の様子に「そういえば・・・私と彼女の話を、お前にはしていなかったな」と基は、ゆっくりと思い出すように話を始めた。
 兄と思っていた基と、母の恋物語。
 母がいつも口ずさんでいた百人一首。
 そして、渚の名前の話――。
 いつか聞いた事がある。自分の名前は誰が付けたのだと。
 母は美しく笑って「ヒミツ」と教えてくれなかった。
 彼女はその時、この目の前の人を思って笑ったのだろうか――。
 知らなかった真実。
 自分の存在は、母を不幸にした元だと――渚はどこかで思っていた。
 けれど、彼女は自分を望み産んでくれたのだろうか――と、基の話を聞いて、渚は思った。
 もう死んでしまった母の・・・本当の気持ちは、もう判らないけれど。














「どうして? どうして、渚が――アメリカに行っちゃうんだよっ」

 成田空港、搭乗口の前で、和成はごねていた。
「和成・・・そんな事を言って、渚さんを困らせるんじゃないの」
 和成の母、和美が息子をたしなめる。
 だが、彼は納得できない様子で言い募った。
「だって、渚・・・渚、俺の叔父さんじゃなく、お兄さんだったんだろう? だったら、一緒に住めがいいじゃないか――家族なんだからっ!」
 雑誌にすっぱ抜かれた記事。
 連日賑わうワイドショー。
 和成がそれを目にしないわけはない。
 知った真実に驚いたが、喜びの方が勝った。
 兄ならば、自分の兄ならば、渚はずっと側にいてくれるだろう――と。
 和成は本能で何かを感じ、恐れていたのかもしれない。
 高校を卒業と共にいなくなった時みたいに、渚は急に自分の前から姿を消すのではないか――と。
 けれど、兄弟という絆が出来れば――きっと自分に何も告げず消える事はない・・・いや、ずっとずっと一緒に入れる。瀬野という会社を共に経営して行く事が出来るのだから。
 だが。
 今朝、突然・・・父から告げられた事実。
 渚が今日日本を発ってアメリカに行き、たぶん一生戻らないという事。

「だから・・・言わないでくれって言ったのに」
 渚は少し困った顔で、基に言った。
「そういうわけには・・・。せめて、私達だけでもお前を見送りたかったんだ」
 基の言葉に渚は苦笑して、「ありがとうございます」と答えた。
「義姉さんも、和成も――来てくれてありがとうございます」
「渚さん・・・」
 和美は言葉にならないようで、少し涙ぐみ、和成はやはり納得できないようで、時間のギリギリまで渚を困らせていた。

「・・・そろそろ、行かなくてはいけなようです」
 搭乗手続きの放送がなり、渚は別れを惜しんでいた家族から、電光掲示板へと目を向けた。
「渚・・・向こうに着いたら、連絡を。メールでもいいから――。できれば、時々でいいから近況を連絡してくれると、嬉しい」
 兄の――父の言葉に、渚は肯く。
「必ず、連絡します」
「お元気で・・・渚さん」
「ええ、義姉さんも、健やかに――」
 そして、カワイイ甥・・・弟に、渚は目を向ける。
「・・・・・・」
 むくれて俯く和成にゆっくりと両手を伸ばして、抱きしめた。
「な、ぎさ・・・」
「大きくなったな――和成。最初にあった時は俺の膝ぐらいまでしかなかったのに」
「・・・もっと、大きかったよ」
 ボソッと、否定する和成に渚は笑うと、腕を解こうとしたが和成が抱きついて離さなかった。
「和成――強くなって、父さんを支えて母さんを守れ。瀬野の中は魑魅魍魎の世界だ。お前が飲まれるな――お前を守れない俺を許してくれ」
「な、ぎさ・・・やだ、やだよ・・・」
 別れの時間は迫っている。
 泣き声ですがりつく和成の手を、渚はどうしても振り払えないでいた。
「お前なら大丈夫だ。俺はお前が出来る人間だと知っているから・・・」
 黙り込む和成に、渚は彼の背中を慰めるようにポンポンっと叩く。
 すると急に和成は、渚の耳元へ口をよせ、小さな声で囁いた。
「・・・・・・渚、オッサンは、どうしたの?」
「・・・・・・」
 和成の言うオッサン――和泉博隆の事だというのは、もちろん聞きかえさなくても判っている。
 和成には博隆との関係も全てバレているので、今更隠す事もなかった。
「何も・・・言ってないさ。報道で、俺に色々あったことは知っているだろうが、家のことに関しては、ヤツは口を出してこないから」
「――それで、いいの?」
 あれほど喧嘩をしていたのに、こうして博隆の事を心配してくるところなどは、和成のかわいいところであり、結局二人は気があっていたのかもしれないと思えたりする。
「あいつだって、暇じゃないんだ。そのうち忘れるだろう――」
 ――あれだけ魅力的な男だ。すぐに相手もみつかるだろうし。
 そう言いかけた渚は、背後から肩を思いっきり捕まれ凄い力で引っ張られた。

「そりゃ、ねーんじゃねぇの。ダーリン?」

 振り返らなくても判る、その声。
 おそるおそる振り向くと、予想していた男がいた。

「・・・博隆」
「おっさん――」

 和成を抱きしめていて気付かなかったが、自分と和成。そして基と和美の周りを、黒服でサングラスをしたいかにも怪しい人間が取り囲んでいた。
 通行している人間も、そこで出発便を待っている人間も、遠巻きにこちらを見ている。それだけ異様な雰囲気が見て取れるのだろう。

「何のつもりだ――博隆」
「それはこっちの台詞だぜ、渚」
 口元はにやにやと笑っているが、目が笑っていなかった。
 これは、本当に怒っているときだと――長い付き合いで判る。
「お前の家のことに、首を突っ込む気はない。だから今まで黙ってやってた。だがな――それとコレとは別だ」
「な、に・・・」
 博隆の手が渚の顎にかかる。
 無理やり上を向かされ、目と目をあわされる。
「俺の腕の中から出て行く事は許さねぇ。俺の元からいなくなる事は許さねぇ。もう二度と、あの時のようなことは許さねぇ――」
「お前に許される必要など・・・! 俺はもう日本には――ぐっ」
 いられない! と言いかけた所で、腹部に衝撃を感じる。
 見事に鳩尾に入った博隆の拳は、そのまま渚の意識をブラックアウトさせた。

「おっさん! 何すんだよっ!」
 突然の博隆の登場に、呆然と見ていた和成だったが、博隆が渚に拳をふるった所で我に返った。
 崩れそうになった渚の躯を支え、「よっ」と肩に担ぎ上げた博隆は、和成を見るとニヤリと笑った。
「見ての通りだ。こいつは貰っていく」
「なっ・・・!」
「何をするんだ、和泉君。渚を離してくれ」
 突然の事に驚いていた基も、博隆に手を伸ばして渚を取り返そうとする。
 だが、その間に入ったのは――黒服を着た男達だった。
「お前ら、乱暴に扱うんじゃねぇぞ」
 笑いながら言う博隆に、基は男達に抑えられながらも博隆につかみかかろうとする。
「渚を・・・渚に、何をするつもりだっ!」
「あんた達が捨てるっていうから、俺が貰いにきたんだよ。瀬野基さん」
 博隆はいつものとおり、ニヤニヤと笑いながら飄々とした態度を崩さない。
「捨てるっ! どういう意味だ――! 渚はモノじゃないぞっ」
「あんたは捨てたんだろう? 自分の立場とガキと嫁さんを守るために、渚を切り捨てたんだ。違うか?」
「・・・・・・っ」
 違う――と、基は言えなかった。
 目の前の男の言うとおり、結局保身の為に自分は渚――たとえ彼が望んだのだとしても――を、切ったのには間違いないのだから。
「俺は、捨てたものを頂いていくだけさ。瀬野がこいつをいらないというのなら、俺が貰う。俺はコイツが必要だし、コイツを守ることが出来る――今のあんたには出来ないだろう?」
「・・・っ」
 根元からぐらついている瀬野を守り、家族を守り――そして、渚を守ることは・・・無理だと。
 基はそう思って・・・あの日、渚に話をしにいったのだ。
 渚から切り出してくれたが、基も頼むつもりだった――しばらく日本から離れて身を隠してくれ。瀬野から離れてくれ・・・と。
 息子同士の争いなど、見たくなかった。
 だが、自分にそれを止めれるだけの力があるかどうか――自信がなかったのだ。
 だから――。
「というわけで、頂いていくよ。大丈夫。大切に大切に囲ってやるさ――誰にも傷つけられないようにね」
 男の笑みに、基は背筋がゾッとした。
 渚は本当に――大丈夫なのだろうか。
 だが・・・。
 今の自分に、彼を止める力は無かった。

 基が諦めたのが判ったのか、博隆は渚を抱えなおすと、彼らに背を向けた。
「車は?」
「入り口に止めて有ります」
 全て手はずを整えていた久井の言葉に、博隆は肯く。
 ゆっくりと歩きだした時、博隆を止める声が響いた。

「待てよ、おっさんっ! 渚を離せよっ! てめーになんか、渡すもんかっ!!」
 振り返らなくても誰の声か判る。
 博隆はニヤリと犬歯を見せて、声の主へと視線を流した。
「ガキ、今のお前に何が出来る?」
「な、にっ」
「コイツをマスコミから守る事が出来るのか? 瀬野の魑魅魍魎から守る事が出来るのか? できねーだろ? お前はガキだからな」
「・・・っ」
 和成の顔が屈辱で染まる。
「渚が欲しけりゃ、お前が力を手に入れろ。瀬野を掌握して、それから来い――もちろん俺も渡す気は無いが、な」
「くっ、そー!」
 和成は博隆に掴みかかろうとしたが、それを父親の手で阻まれる。
「離せよっ、親父! 渚が連れて行かれるっ! 警察、警察に言って――!!」
「無理だよ、ガキ。じゃあな」
 再び歩き出した博隆は、背後で叫ぶ和成の声が聞こえても、再び振り返る事は無かった。



「渚っ! なーぎーさー!!!!」



 広い出国ロビーで、和成の叫び声だけが――空しく響いていた。










楽園6 完




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2005.06.16


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