楽園5 −後編− |
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「・・・・・・」 車を降り、渚は邸宅を仰ぎ見た。 初めて連れてこられた時は、この大きさに息を飲んだりもした。 今では、何も感じないぐらいに慣れたのだが。 それでも、ココを好きにはなれない。 「渚様――」 「わかっている」 飯島に促されるがまま、その巨大な邸宅へと渚は足を踏み入れた。 「お待ちしておりました」 渚を迎えたのは、執事長以下、使用人の面々。 いつもこの家で迎えてくれていた優しい人はいない。 「義姉さんは?」 執事長に問いかけると、「若奥様は、自室の方で控えておられます」と、言葉短く答えた。 ――完全に仕事方面の話って事か。 渚の父である忠雄は、仕事に関しては女に口を出させない。たとえ妻の光江であったとしてもだ。もし口を出させていたら、渚のエンタープライズ社就任は決してありえなかっただろう。 いつもは屋敷の入り口で渚を迎えてくれる基の妻の和美が控えているという事ならば、仕事の話でしかない。 仕事の話といえば、どうせ今日本社に呼び出された事だろう。いちいちこうして呼び出されるというのは、正直鬱陶しい。特に今、瀬野本家とは距離を取りたいのだ。 「渚、来たか」 通された食卓には、忠雄のみがいた。 基を始め兄達が揃っていると思っていた渚は、驚きに目を見開く。 「そこに座れ。――おい」 忠雄の言葉に、横に控えていた執事が頭を下げて部屋を出て行く。 渚は仕方なしに、進められた椅子に座った。 「何か御用ですか? いちいちココに呼び出さなくても、本社で会った時に仰って下されば――」 「・・・まだお前は、この家が怖いか?」 「・・・」 嘲るような忠雄の言葉に、一瞬カッとするがそれを顔に出さない。 以前なら怒りで口答えしていただろうが、それぐらいは大人になった・・・いや、違う。挑発に乗る気は無かったのだ。今は大切な時だったから――。 執事が戻ってきて、手にしたワインをグラスに注いでいく。 「まぁ、飲め。乾杯だ」 「何に乾杯されるのでしょうか? そのような事いい事ありましたか」 渚の嫌味に、忠雄はニヤリと笑っただけだった。 その後、運ばれてくる食事を機械的に口に運ぶ。味など感じない、砂を噛むような食事。苦痛としか言い様が無い。 忠雄は何もいう事はなく、渚も何も目の前の男と語る事などない。カチャカチャとナイフやフォーク、スプーンが皿などにあたって出る音と、口に運んだ食物を噛み砕き嚥下する音だけが、部屋に響いた。 食後のエスプレッソが運ばれ、それを飲み干すと、渚はゆっくりと腰をあげた。 「私はそれほど暇というわけでもないのですよ。御用がないのでしたら、帰らせていただきます。きちんと食事の相手はさせて頂いたので」 そういい捨て忠雄に背を向けた渚に、引き止める言葉はなかった。 ――単に、嫌がらせか。 だが、そう思って息を吐きかけた時だった。 背後の男の声が、部屋に響いたのは。 「渚、お前――和泉の倅とまだつるんでいるみたいだな。香港で何をしていた」 渚の足が、ピタリとその場で止まる。 気を抜いた瞬間、絶妙のタイミングでの言葉。 忠雄の今回の会食の理由は、これだったのだ。 背を向けていて良かった――と、心から渚は思った。男と正面をきっていたら、ポーカーフェイスを保てていたか自信が無い。 「友人ですからね。休みを共に過ごしていただけですよ」 動揺した心を落ち着かせて、冷静に渚は答える。 「和泉の倅が、香港で何をしていたか知っているか?」 「いいえ。お互いの仕事に関しては、ノータッチですので」 仕事に関しては、ノータッチ。それは真実だ。 だが、香港で何をしていたのかは知っている。あの男は、香港の華僑とマフィアとの取引に出かけていったのだ。 なぜ渚が知っているかというと、その香港に強引なあの男のやり方で無理やり一緒に連れて行かれたから。 しかも、博隆のトラブルに巻き込まれ攫われるという最悪な目にあった。しかし、そのおかげで香港を仕切る華僑のトップ張飛龍と知り合いになれ、瀬野グループがしようとしていた李との提携を阻止する事が出来たのだ。 今、瀬野が香港のトップ3企業に入る李と提携されるのは、渚にはまずかったから。 「・・・そうか。お前も何か知っているのなら、すぐに私に報告しなさい」 「・・・わかりました」 渚は止めた足を再び進めた。 執事長に案内されるがまま屋敷を出る。 ――あの男はわかっていない。 博隆をけん制してくるあたりが、その証拠だ。 渚と博隆は、仕事に関してはお互い口出しも手出しも本当にしていない。 それが、忠雄には理解できていないのだろう。 香港に行った博隆。そしてその後すぐに潰れたビックプロジェクト。 博隆が何か関わっていると見ているらしい。 本当は自分が手元に引き寄せた渚が全て動かした事など、気付いていない。 ――飼い犬に手を噛まれるという事を、あの男は想像だにしないんだろう。 気付いた時には、遅すぎるさ・・・。 その瞬間を想像するだけで、渚は甘美な思いに浸れる。 あの男がその時に見せる表情――それだけのために、動いているのだから。 「渚様・・・」 「飯島」 屋敷の前で、飯島は立っていた。 「お前、待っていたのか? こんな事は、職務外だろう・・・?」 驚いた渚に、飯島は微笑を浮かべる。 「私が待っていたかったのですよ、渚様」 さあ、どうぞ。と薦められるがままに、渚は車の後部座席へと座った。 行きは後部座席で渚の横に座っていた志野が、助手席に座っている。 「志野、待たせた」 「いえ、私が勝手に待っていただけですから」 なぜ助手席に座っているのか不思議には思ったが、特に聴くようなことではないと渚はあえて言葉にはしなかった。 飯島が渚の隣に座ると、ベンツはゆっくりと動き始める。 動き始めた景色を見ながら緊張が一気に取れたのか、渚の躯中からフーと力が抜けた。 「渚様――」 「なんだ」 背もたれに躯を預け、目を閉じる。 正念場まで進んだ計画のおかげで、渚はほとんど眠れない日々が続いていたから。 力を抜いて、リラックスした瞬間だった。 「何をされて・・・いや、何をたくらんでられるのですか?」 「・・・・・・」 「飯島さん、何をおっしゃっているのです!」 不意打ちの言葉。 飯島は志野の抗議の言葉など全く意にかえすことなく、渚だけを見ている。 一瞬走った渚の緊張を、飯島が見逃すわけがないだろう。 それでも。 渚は見事に表情を立て直して、飯島に向き直った。 「何を言っているんだ? たくらむ・・・? 何を?」 「・・・」 飯島は無言で渚を見つめる。 渚も飯島を無言で見た。 しばらく続く沈黙を壊したのは、飯島だった。 「貴方が言うはずはないと、思ってはいましたが・・・」 「言う事など、無いからな」 あくまでもそれで通そうとする渚の意志を飯島も汲んだのか、それ以上何も言ってこなかった。 沈黙が続いたベンツが止まったのは、セノ・エンタープライズ社の前。 礼を言って降りようとした渚の手首を掴んで、飯島は再び渚を車内へと引っ張り込んだ。 「なっ・・・」 「渚様――」 バランスを崩した渚は、そのまま飯島の腕の中へと抱きとめられる。 「い、いじま・・・!?」 40を過ぎているはずの飯島の強い力に、渚は戸惑いを隠せない。 そんな渚の態度をよそに、飯島は渚の耳元へ口を寄せると、吐息のような声で囁いた。 「光江様が動いておられます。気をつけてください」 「・・・っ」 それだけを言うと、渚の躯を束縛していた腕を解放した。 渚は呆然としながら、車から降りる。 「社長・・・!」 先に降りていた志野が慌てて寄ってくる。 渚は、飯島を無言で見送る事しか出来なかった。 「飯島さんは、何を貴方にしたんですか――! あの人、突然・・・助手席に移ってくれとか言い出して、貴方の隣に座ったと思ったら・・・あんな・・・」 飯島の不可解な行動に、志野は怒りを露わにしている。 だが、渚は飯島の言葉が頭の中で渦巻いていた。 「・・・・・・」 義母が動いている。 今更また自分を殺そうというのか? 流石に和成に見られてからはその方法は危険を伴うとあの女も学んだはずだったのだが――。 それとも、また別の意味で動いているのか。 答えない渚に、志野は苛立ったように答えを急き立てた。 「渚っ・・・!」 「あ、ああ――」 飯島に告げられた事を話すと、志野は渋い顔をさらに渋くした。 「今更あの人にできる事など無いと思うのですが・・・」 「そうは思うけど、な」 自分達の計画を邪魔するほど、あの女に力があるわけ無い。 飯島の言葉は引っかかるが、今の渚に彼女を構っている暇など無かった。
数日後。 渚が待ち望んでいた連絡が来た。 『全ては整った。明日動くよ、ナギサ』 『判った。こちらも大丈夫だ』 これが、合図。 やっと終わる。全てが――。
「社長っ!! 大変です――!! 瀬野商事の株、21.5%をMRA社が取得したと連絡がありました――!!」 社長室に飛び込んできた男に、渚は「わかった」と頷いた。 「志野――」 「はい」 志野は、電話を取ると本社秘書室への直通番号を押す。 そのまま何言か口にすると、すぐにそれを切った。 「本社へ集合です」 「そうか・・・行ってくる」 「ああ――ついにココまできたな」 志野の輝いた瞳に笑いかけると、渚はセノ・エンタープライズ社の社長室を出た。 そうだ。 今日の為に、自分は日本に戻されてからの日々を耐え続けたのだ。 負け犬になったあの男が、俺に「やめてくれ」と頭を下げるのを見るためだけに・・・。
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完結編に続く(汗) BACK TOP NEXT |
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2005.04.17 |