楽園2 中編 |
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「お帰りなさませ―――」 瀬野家使用人全員が、入り口の所で渚に向かって礼をした。 まるで・・・軍隊のような寸分の狂いも無い敬礼――― ―――息が詰まるな。 渚は、陰鬱な気分に駆られた。
家人の優位を誇こらさせるだけに教育されている使用人達。 そのように教育しているのは、あの執事長であり、そうさせているのは、正妻・光江である。 光江を支配しているのは、上に立つ者としての誇り。 虚栄心。 瀬野家の家長の妻という、最高に自分のプライドを満たしてくれる立場。 大切なモノといえば、それだけだった。 自分の見栄とプライドと立場。 それにしがみつき、それだけのために生きている―――。 それ故に、自分の夫が愛人を囲っているという事実は、光江のプライドをひどく傷つけた。 だが、見栄が邪魔をして、醜く嫉妬する己の姿を夫に見せるわけにはいかなかった。 そして、そんな光江の中にはまだ1つの誇りが残っていた――― ――私の方が美しい。 光江は、若い頃にはすべてのモノを魅了する美しさで輝いていた人間だった。 親は銀行の頭取。 そんな光江を、周囲の人間がほっておくはずはなく、常に何人もの人間に囲まれ、チヤホヤされ立てられてきた。 全ての中心になってきたのだ。 そして、その頃凄まじい勢いで伸びてきた瀬野グループの長男との結婚。 彼女の見栄を、 プライドを 誇りを 崩すモノなど無いはずであった。 夫が浮気しても、それは浮気。 帰ってくるのは私の所。 私より美しくない人間に、本気になるはずがない―――。 だがその誇りは、1人の人間の登場で崩れ去ることになる。 水野咲子。 ただの芸者―――。 だが、思わず息を呑むほどの、美貌―――。 ・・・咲子に関する報告書を見た光江は、周りのモノが手を着けられない様なぐらい荒れたという。 光江は、夫が咲子に夢中になっていく様子を、自分を成り立たせていたすべてのモノが足下から崩れ去る感覚で見ていた。 そして、息子の誕生―――。 咲子そっくりに美しく育っていく夫と咲子の子供を見て、光江の中で何かが壊れた。 ――あんな存在、認めない。許さない。 光江はその日から、鬼となった―――。
「渚さん―――」 パタパタパタッと、長い廊下から一人の人間が近寄ってきた。 「ね・・・義姉さん―――」 「やっと帰ってきた下さったのね。お待ちしておりました」 柔らかく微笑む彼女の笑みに、渚は心の底から温かい感情がわき上がるのを感じた。 瀬野和美 長兄・基の妻。 親族の中で、唯一この瀬野家に来た渚を、温かく優しく迎えてくれた人―――。 荒みきった渚に、潤いを与えてくれた、可憐でコスモスの花のような人―――。 「ずっと心配してたんですよ。アメリカに行ってから連絡が無くて・・・。あの人は渚さんのこと全然教えて下さらないし―――」 「スミマセン、義姉さん」 この人の前なら、素直に謝れた。 「うふふ、いいのよ。渚さんが一番大変だったんでしょうから・・・。」 「いえ・・・・・・」 彼女は、渚の立場を理解していて、それでも話しかけてくる。 義母に睨まれるのも、気にせずに―――。 「渚さん。皆さんがいらしてますわ・・・」 「はい―――」 渚は真剣な目つきで前を見据えた。
ガチャ 平然とした顔で、部屋に入る。 部屋の中には、家長・忠雄。長男・基。次男・秀樹。3男・純一。4男・健二。そして、義母・光江。 「ただ今、戻りました」 「ふん、お前に戻って来て欲しいなんて、誰も望んじゃいなかったぜ―――」 忌々しそうに、健二が言い放つ。 「いきなり戻ってきて、エンタープライズ社の社長だと―――? ふざけてやがるよなぁ、庶子のくせに」 嘲た口調で、純一は渚を見た。 「俺は、別に戻って来たくて戻ったワケじゃないが・・・」 兄弟達の言葉に、渚は平然と答える。 「なに云ってやがる。財産目当てで戻ってきたくせによぉ」 反論した渚に、熱くなった健二が立ち上がってあからさまに罵った。 渚は、チラリと義母光江の姿を見た。 罵られている渚のことを見て、満足そうに微笑んでいる―――。 相変わらずか。 光江は自分では何もしない。 一度、一度だけだ。 理性を失って、包丁を渚に向って振り上げたのは。 その時以外は全て、周りの人間を使って自分の意志を通していた。 3男と4男は、義母の思い道理に動く可愛い息子達―――。 マザコンの馬鹿どもが―――。 渚は小さく溜息を吐いた。 「渚を呼び戻したのは、私と父の意志だ―――。そうですよね、父さん」 何も云わなくなった渚を次々と罵っていた二人に、長兄の基が突然口を挟んだ。 その部屋の人間全てが、驚いた表情で基を見る。 渚も例外ではなかった。 「エンタープライズ社の件に関しては、渚が社長として就任するのが一番いいと思ったから、アメリカから呼び戻した。父さんと相談してな。その件に関して、文句があるなら、俺と父さんに云うべきだな。純一、健二」 「に・・・兄さん」 今まで、3男や4男のように。あからさまな言葉を投げかけることはなかったが、長男と次男は、渚の存在自体を無視していた。 その長男が、初めて口を挟んだ――しかも、渚の肩を持った――のだ。 「なぜ、お前達が、エンタープライズ社の社長に選ばれずに、渚が選ばれたのか、その辺をよく考えて見るんだ」 長兄の言葉に、3男と4男は唇を噛み締め、俯いた。 渚は、義母の姿をもう一度見る。 平然とした顔をしていたが、握りしめた手が震えていた。 最も愛する長男・基の裏切りとも取れる言葉に、ショックと動揺と屈辱でいっぱいなのだろう。 その隣の、家長忠雄は平然と煙草を吸っている。 そう、この男はいつもこうなのだ。 家族でこのような諍いが起こっていても、絶対に口を挟まない。 我関せず、の態度でその言い争いをジッと見ているだけだった。 これも相変わらずか――― だが、長兄の変化は渚にとっては大きいモノだった。 長兄が味方とはいかなくても、敵に回らないと云うだけで、立場は大きく変わる。 今、瀬野グループを半分仕切っているのは、この長兄・基なのだ。 たった一人で抵抗していた、9年前とは事態は変わろうとしているのかもしれない・・・。 気まずい雰囲気の流れ出した部屋に、その時一気に風が吹いた―――。 「渚ぁ――――――!!!!!」 その風は、部屋に飛び込むと、そのまま入り口の所で立っていた渚に飛びついた。 「――か、和成か?!」 「そうだよ!!オレだよ―――。渚ひでぇよ〜。9年間も音信不通なんだもん」 和成はそう云うと、渚の懐に潜り込み、首筋に顔をすりつける。 「あ―――渚の匂いだぁ。いい匂い〜」 ゴロゴロゴロ。 猫のように甘える和成に、渚の顔も優しいモノとなる。 「大きくなったな、和成。何歳になったんだ?」 「もう、16歳だよ。高一なんだぜ―――」 天真爛漫な態度。 人を惹きつけられずにいられない、存在感。 長兄・基と和美の長男―――瀬野和成。 祖父である忠雄から引き継いでいる、カリスマ。 将来間違いなく瀬野グループのTOPに君臨することになるだろう。 「くそー。まだ、背追い付いてないなぁ〜。」 「どれくらいになったんだ?」 「176」 「あと、4センチ弱だな―――」 「う゛―――」 不満そうにうめいた和成の頭を、渚はクシャクシャッとかき混ぜた。 「お前達は、そんなに仲がよかったのか・・・」 今まで沈黙を守っていた忠雄が、初めて声をあげた。 初めて見る、渚の優しい笑みに見惚れていた他の面々も、忠雄の言葉にハッと意識を戻す。 「うん、じいちゃん。初めて渚がこの家に来た日に、俺が口説きに行ったんだ―――」 「そうなのか、渚」 「ええ・・・まぁ・・・」 本当の話だ。
渚がこの邸宅に来た日。 一族中の人間に、白い目で見られて過ごした日の夜。 和成は、渚の部屋に訪ねてきて 「渚、綺麗だよな―――。オレ、渚に一目惚れした。」 と、大人ぶった口調で宣言してきたのだ。 渚15歳、和成4歳だった。 無邪気に懐いてくる和成は可愛くて、かたくなに心を閉ざしていた渚も少しずつかまってやるようになっていった。 そんな関係に、和成の母である和美が気付いて―――義母から渚の事にに関しては釘を刺されていた為、最初は警戒していたが、息子の渚への懐きようを見て、和美も自然と渚と話をするようになる―――。 この広い邸宅に普段は、忠雄と基・秀樹は仕事に出ていていなかったし、純一・健二は遊び歩いていて滅多に帰ってくることはなかった。 そして光江は、社交界の付き合いやパーティなどが忙しくて、やはり余り居ることはなかった。 こうして、義母達の目がない所で3人の関係は作られていったのである。 渚が桜華学園に行ってしまってからも、手紙のやりとりは続いたし、寮が閉鎖され実家に戻った時には、義母の目の届かないところで、遊園地に連れていってやったりしたのだ。 渚は、和成に―――母以外の誰かに初めて向けられた、何の画策も裏工作もない親愛の情―――癒されたのだった。
「渚―――また、アメリカに戻っちゃうのか?」 和成の質問に、渚は曖昧に微笑む。 「渚は、エンタープライズ社の社長に就任したから、もうアメリカには戻らん。和成、お前は新聞も読んどらんのか―――」 「へへっ。読んでなかった」 忠雄に向かって舌を出す和成。 忠雄も、口調のわりには柔らかい顔をしていた。 自分にそっくりなカリスマを持ち、そして自分以上に愛されるモノを持つ孫を、忠雄はことのほか可愛がっているのだ。 ガタンッ 物音に皆が振り返った先には、真っ青になった光江が立っていた。 「気分が悪いから、部屋に戻りますわ―――」 「だ、大丈夫かい?母さん」 心配そうに手を伸ばしてきた純一の手を払いのけ、光江は部屋から出ていった。 その姿に、彼女の憤りを感じて渚は目を細めた。 そう、義母は和成のことを、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたのだ。 唯一、自分の容姿に似た基の息子。 将来、瀬野のTOPに立つであろうカリスマを持った自慢の孫――― この孫の裏切りは、彼女にとってはかなりの屈辱であり痛手だな―――。 渚は、口の端をあげて皮肉な笑みを浮かべた。 笑わずにいられない気分だったのだ―――
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2000.3.2 |
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