9









「夜が、明ける――」
 遠い地平線の方から、うっすらと明るくなってくる空を見ながら、綺良は呟いた。
 城内は明け方だというのに慌しい。
 それはそうだ。
 捕虜としていたサラディン最後の皇族シャイナが行方不明になったのだから。
 それでも、綺良はわかっていた。
 シャイナはもうすぐ戻ってくるだろう。
 綺良の主人が、連れて。

 ガタン。
 物音に、振り返る。
 そこには、予想していた通り――森羅と、その腕に抱えられている美しい人がいた。
「ご無事、でしたか」
 森の方に行ったとわかった時は、肝を冷やした。
 あそこには、多くの獣達がいるのだから。
「ああ・・・」
 森羅は綺良の隣をすり抜け、奥にあるベッドへと歩いていく。
 そこへゆっくりと腕の中なのシャイナを下ろすと、小さく息を吐いた。
「気を失われているのですか? 怪我など・・・」
「眠っている、だけだ。怪我は少しあるかもしれない。獣に襲われていたからな」
 森羅は目を閉じ、眠りの世界へと旅立っているシャイナを見ながら呟く。
「美しい肌に傷など・・・。しかし、シャイナ様はどうして――」
 籠の中の鳥は、己が飛べるということさえ忘れている。
 シャイナは、籠の中の鳥だ。
 生まれてこの方、一度も飛んだことのない鳥。
 だから、ほとんど警戒などしていなかった。
「俺の妻になるのが、嫌だった・・・」
「・・・そうなのですか?」
 森羅の言葉に、綺良は問い返す。
 あの美しい人形のような彼が、森羅の妻になりたくないからと・・・そこまでの行動を起こすとは思えない。
 綺良が主の顔を覗き込むと、そこには怒りというより戸惑いの表情が色濃く現れていた。
「・・・俺が嫌、だというのとは違うらしい。何を、抱えているんだ」
 それは綺良への問いかけではなく、その美しい瞳を見せてくれない人への言葉。
 それを悟った綺良は、そのまま無言で主人に背を向けると、その部屋を後にしたのだった。






 ――あ、たたかい。
 感じたことのない温かさに包まれた感覚に、シャイナはゆっくりと覚醒した。
 もう少し目を閉じていたいと思うほど、それは心地よい温かさだったのだが。
 ゆっくりと目を開けると、白い天蓋が見える。
 ――ここは。
 ベッドの中、なのだろう。柔らかい毛布の感触もある。
 そしてそれと・・・。
「・・・ッ」
 ゆっくりと視線を横に向けたシャイナは息を飲んだ。
 そこには、黒い髪と褐色の肌をした人がいたのだ。
 要するに、シャイナの隣に寝ているということである。
 ――ど、どうしよう。
 どうしようどうしよう。
 見れば見るほど、シャイナの隣で寝ているのは・・・臥雷王である森羅にしか見えない。
 耳をすませば、彼の寝息が聞こえるということは、完全に夢の中にいるのだろう。
 シャイナは混乱し、どうしていいかわからなくて、軽いパニックをおこしていた。
「どう・・・して」
 王がここにいるのか。
 考えてみたら、自分はこの王から逃げる為に城から出たのではなかったのか?
 森でさまよって、獣に襲われて、狼に助けられて――。
 昨晩の記憶が次々と蘇える。
 もう一度視線を天井の方に向け、周りを見わたす。
 そこは、シャイナの国サラディンが滅ぼされ、臥雷王の元につれて来られてからずっといた部屋だった。
 狼に助けられ、これからどうしたらいいかと途方に暮れながらも、彼の温かさに――。
「覚えて、ない」
 その後の記憶がない。
 もしかしたら、己は寝てしまったのではないのだろうか。
 自分の危機感の無さに激しく落ち込みつつも、シャイナは森の中にいた自分がどうしてこの場所に戻ってきたのかと考えてみる。
 寝てしまっている自分を、探しに来た臥雷の誰かが見つけた――としか、考えられない。
 ――なんと、情けないことだろう。
 死ぬことも、逃げることもできないなんて。
 王の、臥雷王の側にはいてはいけないと――そう思って、逃げ出したのに。
 あっという間に、この場所へと戻ってしまった。
「どう、しよう」
 とりあえず、起こさないように起き上がろうとしたシャイナだったが、再びベッドに沈む事になった。
「・・・ぁ」
 伸びてきた太い腕。
 それがシャイナを抱え込んだのだ。
「もう少し・・・寝ておけ」
  密着した躯と躯。
 初めて知る素肌の感触。
 森羅は再び浅い寝息を立てている。
「え・・・あ・・・」
 どうしたらいいかわからない。
 ただ眠っている森羅を起こしてはいけないと、シャイナは躯を固めた。
 ――音、がする。
 抱きしめられ、森羅の腕の中へと抱え込まれたシャイナは、その顔を森羅の胸の中へ埋める形となった。
 そして森羅の胸からは、規則的な音が聞こえてくる。
 ――ドク、ドク、ドク・・・。
 これが・・・胸の鼓動?
 本で読んだだけの知識。
 人の左胸には、心の臓があって、それが定期的に鼓動することによって、人には血が循環して生きていると。
 その鼓動は生命の証――。
 ――力強い、音だ。
 王の奏でる音。
 力強く、心地よい。
 そして、温かい。
 あの狼の温もりしか知らなかったシャイナは、初めて人の温もりに包まれたのだ。
 素肌が触れ、そこから広がる温かさ。
 ――わ、たしの・・・心の臓の音も。
 ドクン、ドクン。
 耳の奥の方から聞こえてくる。
 それはまるで、森羅の鼓動とあわせるように。
 いやそれ以上早く、鳴っている気がする。
 ――私も、生きているんだ。
 この方のように。こうして自分の生が感じられる。
 本当は自分は生きている『人』ではないのではにかと、シャイナは疑ったことがある。
 人ではないと自覚した方が、楽かもしれないとも思ったからだ。
 けれど、感じる。
 自分は人だと。
 こうして、力強く温かい腕に抱かれて――自分は生きているのだと、自覚した。





「そろそろ・・・」
 綺良は己の主が、朝は弱いことを知っている。
 いや判っている。
 なので、主が動き出す頃であろう昼になって、昨晩主が捕虜であるサラディン最後の皇族シャイナを連れ戻った部屋へと向かった。
 主がその部屋から出たという報告はない。
 もちろんシャイナも、だ。
 城の奥まった部屋のドアをゆっくりと開ける。
 判りきった歩調で、綺良は部屋のベッドがある部屋へと向かった。
 ベッドの側に行き、まだベッドに横たわる主を起こそうとして――綺良は固まった。
「し・・・ん、ら・・・さま?」
「・・・綺良か。静かにしろ」
 背を向けている綺良の主人は、どうやら目は覚めているらしい。
 顔だけゆっくりと綺良の方へと向ける。
「眠っているらしい。起こすには、哀れだ――」
「森羅様・・・」
 己の主から『哀れ』などという言葉を聞いたことの無い綺良は、再び驚きに言葉が出ない。
 綺良の主人――森羅はそんな綺良にフンッと鼻を鳴らすと、再び己の胸の中で小さな寝息を立てている美しくどこか哀れな生き物――シャイナへと視線を向けた。
「この細く小さな躯の中に、一体何を抱え込んでいるのだ・・・」
 今はもう、興味とだけでは済まされない感情が芽生えているのを、森羅は自覚していた。
 もしかしたら、この者ならば――と、どこかで思ってしまったのもある。
 だがそれには、腕の中で安心しきったように寝息をたてるこの幻のような哀れな存在が抱える何かを知る必要も・・・それを解決する必要もあるかもしれない。
 たとえ拒んだとしても、森羅は押さえることはできないだろう。
 ゾクリと躯の奥に火が点く音がする。
 本能が理性を凌駕してしまう前に、シャイナという人間を知らなければ。

「これは、俺のものだ――」



NEXT