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「一度、臥雷に戻る」
 森羅の言葉に、その場にいた人間は驚きで思わず主人を仰ぎ見た。
 森羅が臥雷の王になり他国を侵略し始めてから、彼の口からは『戻る』という言葉が出たことが無かったからだ。
 常に前に進み、常に他国を滅ぼしてきた王。
 それが森羅だった。
 戦いの合間合間に、自国に戻る事はある。
 だがそれは森羅の意志ではなく、家臣達の進言を森羅が承諾したに過ぎない。
 兵士の士気が落ちそうな頃合になると、臥雷に戻る。
 それは大体、冬という季節を迎える頃だった。
 だが、今はまだ――夏が終わりを告げたところである。
 それなのに、森羅の口から祖国へ戻ると切り出したのだ。

「何の気まぐれですか? 王よ」
 一方的に告げられた王の言葉。
 だが反対する理由も無い。
 サラディンも、その隣国だったキーレも――元々の目的だった国は既に手に入れている。
 なので、森羅の言葉に一同が賛成して、その場は終わった。
 森羅が自室――シャイナがいる部屋へ向かおうとしているところを引き止めたのは、綺良だった。
「気まぐれ? 心外だな」
 二人きりになると、二人の間には主人と臣下という空気から、乳兄弟という親しさが生まれる。
「気まぐれ以外、考えられませんが? あなたがあの国に戻ろうと言うなどね」
 山岳の小さな国――冬の間は雪で閉ざされる貧しい土地は、森羅を閉じ込めるには狭すぎた。
 彼は常に、外へ外へと、まるで生き急いでいるかのように――なにかを渇望するように進んできている。
 そんな彼が、初めて後ろを振り返ったのだ。
「…シャイナを連れ歩くのは、限界だと思っただけだ」
「昨日のことですか?」
 シャイナが部屋を抜け出し、森へと迷い込んだ。
 間一髪のところで助かったのだが、今後のことを考えると、確かにこの異国の地――今は、臥雷の領土だが――よりは、臥雷に彼を連れていく方がいいかもしれない。
 シャイナ自身の心の安定のためにも。
「アレが何を抱えてるのかも…」
 ――知らなければならない。
 それを知るためには、腰を落ち着けてシャイナという人間を見定めなければならないと判断したのだ。
 そう――シャイナは、 ただの人形ではない。
 そしてこの感情は、ただの興味ではない。

 そんな森羅の姿を、綺良は満足そうに見つめるのだった。





「…ここは」
 さすがにシャイナの身で馬だけの旅というのは無理だということになり、馬車をつれての臥雷への凱旋となった。
 臥雷軍のみでは3日から4日で移動できる距離も、馬車を連れては一週間以上かかる旅となる。
 しかもその間シャイナは何度か熱を出し、そのたびに軍の足は止まった。
 なんとかケースィール山脈の麓まで来た時にも、シャイナは熱で意識朦朧としていたのだった。
 臥雷の国は、ケースィール山脈の間にある小さな国である。
 山々に囲まれた国は侵略はされにくいが、外に出ていくのも難しい。
 今までほとんど歴史の闇に隠れてきたといっていい――森羅が王になるまでは。
 山道に馬車を走らせ1日ほど経ったとき、切り開かれた街が見えた。
 ――そこが、臥雷だった。

 サラディンとはまったく違う街並み――サラディンは民家もすべて石造りだったのだが、臥雷の建物はほとんどが木造である。
 街の入口から、城へと向かう一本の大きな舗装された石畳の道。
 ずらりと並ぶ軍を、街の住人達は己の家から出て大歓声で迎えていた。
 誰もかれもが、王を称え軍を称える。
 その歓声を、シャイナは馬車の中で聞いていた。
 ――人、人が大勢いる…。
 黒いカーテンで覆われた窓の隙間から、シャイナはそっと外を覗いてみる。
 軍が行進している大通りには、人が溢れかえっていた。
 皆笑顔で、王と兵士たちに手を振る。
 シャイナは、これほどの人を見たことはない。
 ずっと王宮の奥で過ごしてきたからだ。
 しかも、これほどまでに感情――歓喜という名の――を顔だけではなく体すべてを使って表している人々。
 サラディンでは、見たことがなかった。
 常に無表情で、喜怒哀楽を浮かべることのない能面のような顔――それが、天使の末裔として、サラディンでは求められる”もの”であったから。
 歓喜に沸く人々の表情に、シャイナは魅せられる。
 どこか、心が騒ぐのだ。
 ”生きている”ということ。彼らはそれを表現していた。
 そんな表情をしている人々を見るだけで――なにか、胸がそわそわとして来る。
 いつの間にか、自分の口元にも小さな笑みが浮かんでいることに、シャイナは気づいていなかった。
 


「お疲れだったでしょう? さあ、これをお飲みください」
 小高い丘の上に聳え建つ重厚な城。
 それが臥雷国の城だった。
 ケースィール山脈を背後に持ったその城は、鉄壁の守りを有している。
 サラディンの装飾品で飾られた城とは違い、どこか無骨で質素ともいえる臥雷の城は、そのまま臥雷の国というものを表している気がした。
 到着したシャイナは、すぐに城の客室へと案内されていた。
 まだ体調が万全ではないシャイナを心配してのことだ。
 ベッドに寝かされると、侍女の一人が湯気のたったカップを持ってきた。
「これは…?」
 手渡されたカップを受け取ると、その中身をのぞき見る。
 そこには緑色をした液体と、嗅いだ事のない匂いが漂ってきている。
「それは、香茶と申します。体を温めて疲れを取る飲み物ですわ」
 ――飲み物、だったのか。これが。
 サラディンにはなかったものだ。
 もしかしたら、この臥雷独特の飲み物なのかもしれない。
 恐る恐る口をつけてみる。
 薄く感じる味は、悪くない。
 だだよう香りは、どこか心と体をリラックスさせるものがあった。
「お口にあいますでしょうか?」
 侍女はどこか心配そうに、シャイナを見つめている。
「…ええ、悪くないです。お腹の中がほかほかしてくる…?」
「そうです、香茶は体を芯から温めるのです。これを飲まれて、少しお休みください。旅の疲れが取れますから」
 優しい口調の侍女に、シャイナは頷く。
 この侍女は、サラディンで自分をずっと守ってくれていた乳母を思い出させる。
 体の弱いシャイナを心配して、どこからか取り寄せた薬草ばかり飲ませようとしていた。
 シャイナを神として敬っていたから、彼女の心はいつも遠かったけれど――。



 ――遠吠え?
 シャイナはうっすらと己の目を開けた。
 あたりは薄暗い。
 一気に覚醒したシャイナは、視線を大きな窓の外へと向けた。
 そこには月が闇を照らしている。
 ――もう、夜…? どうやら眠っていたみたいだな。
 シャイナは、侍女が持ってくれた香茶という飲み物を飲みほしたあと体を横にして、目を閉じた。
 それからの記憶は全くない。
 しっかりと夢の世界へと旅立っていたのだろう。
 ゆっくりと体を起こすと、疲れから来ていた体の重さがずいぶん楽になっていた。
「あ…」
 ふたたび聞こえた、獣の声。
 どうしてもそれが、シャイナの心を揺さぶる。気になって仕方がないのだ。
 思わずシャイナは寝ていたベッドから起き上がると、大きな窓へと近づいた。
 キィィと、両窓を押しあけると小さな音が闇の中で響く。
 誰にも気付かれないように、シャイナはその窓をそっと開いていった。
 全開にされた窓から外へと顔を向けると、暗闇の中に静かに光る月とその光で照らされた山並が見え、そのまま視線を下へ降ろすと中庭なのか水をたたえた噴水と、手入れされているであろう草木が薄い光にその姿を映していた。
「あれは――」
 そんな中、シャイナの瞳をとらえたもの。
 茶色の毛に覆われた――月に照らされたその毛は金色に見える、美しい生き物。
 まさか…とも、思った。
 あの獣と出会ったのは、この地ではなかった。
 冷静に考えれば、違うと――結論づけていただろう。
 けれど…。
 庭を横切り、木々が生い茂る山へと続く道へと向かっていたその獣が、不意にシャイナの方へとその頭を向けた。
 ――あの時の狼だ。そうだ…。
 確信に変わった。
 証拠なんて、何もない。
 それは――直感、本能…そう呼ばれる類のものだ。
 けれど、間違いないと。
 そして、その獣も――シャイナをじっと見ていた。
 逸らすことなく、一直線にシャイナの瞳を。
 ――触れたい。
 そう、思った。
 思った瞬間、体が動き出していた。



 暗闇の中を一心に走る。
 ただ、あの獣に会いたかった。触れたかった。
 ペタペタッと、真夜中の静かな城の廊下で、裸足のシャイナの足音だけが響く。
 階段を駆け下り、あの中庭に出る場所を探す。
 走り慣れない体はすぐに息があがったけれど、そんなのは構わなかった。
「…あっ」
 背後から声が聞こえた。
 見つかったのだ。
 あの獣に一目会うまでは、捕まるわけにはいかなかった。
 シャイナは月明かりが差し込む場所――出口に向って走る。
 背後からは数人が追いかけてきているのが判っていた。
 城の中庭に飛び出して、あの茶色の毛を纏った獣を探す。
 ――もう、どこかに行ってしまった?
 諦めきれずに、庭の半ばの――噴水まで歩いていたシャイナの耳に、石畳をカツカツッと踏みしめる爪の音が聞こえてきた。
 思わず振り返ると、そこにはあの狼がいたのだった。
「おまえ…」
 ――私が会いたいと、さっき目があったのが判っていた?
 美しい獣は、まっすぐにシャイナに向かって歩いてくる。
 その姿はとても優雅で美しく、シャイナはその姿に見入ってしまう。
 膝をついて手をのばすと、ゆっくりとその腕の中へ彼は納まった。
「やはり――お前だ。どうしてここにいる…いや、そんなのはどうでもいい。また会えてうれしい」
 暖かい――。
 抱き締める腕に自然に力が入る。
 獰猛なはずの獣は、シャイナの肩に頭を乗せると、おとなしく身を任せていた。

「見つけましたっ! 綺良様! こちらですっ」
 シャイナが庭へと抜けてきた場所から、数人の兵士が向かってくる。
 シャイナの体がビクリと震えた。
 連れ戻されるのを、自然と恐れたからだ。
 けれど、己の立場も理解している
 臥雷のシャイナに対する扱いは、敗戦国の王族に対しては非常によくしてもらっているとシャイナも自覚していた。
 何をされても、文句は言えない立場なのに――かなりの自由を許されている。
 それでも、こうして夜中に部屋を出ることは許されないはずだ。
 あくまでも捕虜なのだから。
 それでも――もう少し、この獣と一緒にいたかった。
 兵士数人に導かれるように、シャイナの知っている人間――綺良が、シャイナの目の前に現れた。
 彼は少しホッとした表情で、シャイナに向かう。
「シャイナ様…こちらにおいででしたか。どうか部屋にお戻りを…」
『ウー…ウゥー…』
 シャイナの腕の中にいた獣が低く呻いた。
 そして、シャイナの腕の中から離れると、シャイナの前に立ち――シャイナを背後に庇うように、威嚇の声を上げる。
「……ッ」
 綺良が驚いた表情で息をのんで、そして目の前の獣をじっと見つめる。
 しばらく狼とにらみ合っていた綺良だったが、やがて小さくため息を吐いて肩をすくめると、シャイナに背を向けた。
「え…?」
 戸惑うシャイナや兵士たちを顧みることなく、綺良は城へと歩いていく。
「シャイナ様、外は冷えます。その獣と共に部屋にお戻りください。あなたは体がお強くないのですから」
 背を向けたまま、綺良はシャイナへと言葉を投げかけた。
「え・・・は、い・・・」
 シャイナを守るようにしていた狼は、当然のように綺良へと続く。
 シャイナも慌てて立ち上がると、その後へと続いたのだった。



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