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「お前も…この国にきてたのか」
 綺良に促されるがままに部屋に戻ったシャイナは、ゆっくりと己のベッドに腰かけた。
 かなり大きい――立ち上がればシャイナ以上の――狼の存在を、綺良は格別驚くこともなく受け入れている風だった。
 ――前から、知っているのだろうか? まさか、私を追いかけてきたわけはではないだろうし…。
 もちろん茶色の毛皮に覆われた獣は、何も語らない。
 ベッドに座ったシャイナの横に、そこにいるのが当然とばかりにその獣は横たわった。
 そしてゆっくりと頭を持ち上げると、シャイナの膝が自分の場所だというように降ろす。
 この孤高で気高い獣は、声を発することはないがこうして失われてしまったはずのシャイナの心を温めてくれる。
 祖国が滅ぼされても、こうして人質として見知らぬ土地に連れてこられても、シャイナは何も感じなかった。
 いや、感じていないと思っていた。
 産まれた時から人としての感情を持っていないのだと――。
 だが、この獣が与えてくれる安心感。
 初めて知った――自分がどれほど不安で緊張していたのかということを。
 母国サラディンが滅んだこと。両親が殺されたこと。たった一人でこの地に来たこと。
「あの地に生きていたとしても、私は――ただの人形として生きていくだけだったのに」
 ふと臥雷王を思い出す。
 この獣と同じく――いや、それ以上にシャイナの心を揺さぶる人。
 触れるだけで火傷しそうなほど、苛烈なオーラを持った――臥雷王森羅。
 彼の人の目で射抜かれた時、初めて震えた。
 何もなかったシャイナの感情に、恐怖という二文字を刻んだのだ。
 その後も、混乱、不安、そして安心感。
 臥雷王・新羅は、シャイナに与え続ける。
 凍りついていた感情が、少しずつ溶けていくようにシャイナの中に沁み込んでいく。
「わからない…」
 怖い。
 見たい。
 怖い。
 知りたい。
 熱い唇。優しい心音。――すべて森羅がシャイナにもたらしてくれたもの。
 怖いけれど、もう一度触れてみたい。
 あの暖かい肌に――。
 太陽のように苛烈で眩しい光――目も開けていられないほどのそれを、真正面で受け止めることができない。
 できないけれど、見ずにはいられないその輝き。
「お前になら、こうして触れてもその温もり以外何も感じないのに――あの方が触れた時は、そこから体全体に熱が広がった…」
 初めて己の中に生まれてくる要求。
 それは、シャイナにとっては混乱でしかなかった。
 シャイナの膝に頭を乗せていた狼は、ゆっくりと顔をあげシャイナを振り返りしばらくじっとシャイナを見つめていたが、特に何をするでもなく再びシャイナの膝へと顔を伏せたのだった。






「…シャイナ様、どうか」
「あ…あぁ」
 耳元に聞こえてきた声に目をあけると、太陽光がうっすらと部屋に差し込んでいた。
 ――もう、日が昇っている。
 昨晩を思い出し、ハッと視線を駆け巡らせるが、そこにあの獣はいなかった。
「朝食をお持ちしました――といっても、もうお昼近いのですが」
 先実、シャイナに香茶を持ってきてくれた侍女だ。
 その優しい笑顔に、シャイナも体の力を抜く。
「ありがとう…しかし私はあまり食欲は…」
 ないのだと断ろうとしたシャイナに、侍女は慌てて顔を横に振った。
「だめです。シャイナ様はそれでなくても細くて脆弱なようなのですもの。しっかり食べて元気になって頂かないと!」
 彼女にとって、シャイナを見たのは昨日が初めてで。
 目を奪われずにはいられないほどの奇跡のように美しい容姿と華奢な体。
 天使の末裔――実際天使を見たことはないが、そうだとしか思えなかった。
 そんなシャイナの顔色は青白く、今にも倒れそうで。それよりもその表情は、まるで迷子の子供のようで。
 守ってあげなくては――そんな気持ちが彼女の中に湧き上がるのは自然なことだった。
「そうですわ。外でお食事をされます? 中庭にテーブルを用意しましょう。シャイナ様はこの臥雷に来られてから、外に出てないでしょう?」
「え…えぇ…」
 戸惑うシャイナに、侍女はにっこりと笑ったのだった。



「いい風が吹いていますね」
 中庭の木陰に運ばれたテーブル。
 その上には、シャイナが見たこともない食べ物が所狭しと並んでいる。
「さあ、シャイナ様。好きなものを食べてくださいな」
「好きなものって…」
 その量と、それがどういったものかもわからなくて、シャイナは戸惑うしかない。
「コレとコレが臥雷の郷土料理です。栄養があって、おいしいですよ」
「じゃあ、それを…」
 彼女はニコリと笑うと、大皿にあった料理を取り分けて、シャイナの前に置いた。
 あまり食欲のないシャイナだが、おずおずとその皿に手をのばす。
「あ…」
 初めて口にしたその料理は、シャイナが今まで食べたことのない味がした。
 素材の味を生かしたほんのりとした甘みと加えられた香辛料とが、口の中で混ざりあい、絶妙のハーモニーを生み出している。
 いままでシャイナがサラディンで食べてきたものは、ほとんど味のしない生きるための栄養を取るための食事だった。
 特に王宮――シャイナに出される食事は、俗世にけがれたものを出さないという徹底的な管理の元で作られていたからだ。
 だから、シャイナの中に『おいしい』という観念はなかった。その言葉自体は本を読んで知っていたとしてもだ。
 生きていくために、口にするだけのもの―― 食事さえも、シャイナにとって煩わしいものでしかなかったのだ。
 臥雷にとらわれてからも、ほとんど飲み物と果物類しか取っていなかったシャイナにとって、これが久しぶりのまともな食事だった。
 初めて食べるそれは、シャイナの中でなんと表現していいものなのか、わからない。
 シャイナは戸惑うように、世話をしてくれている侍女を見上げた。
「おいしゅうございますか? それとも、お口にあいません?」
「い…いえ…。とても、好き…? な、味です」
「好き…それを、おいしいと言うのですわ、シャイナ様」
「おいしい…? おいしい…お、いしい…」
 子供のような表情で何度も『おいしい』を繰り返すシャイナを、彼女は慈愛に満ちた目で見つめる。
 ――あの伝説の国、サラディンの皇子だと。天使の末裔だと聞いていたけれど。見た目は本当に麗しくて天使のようで、それと等しく無表情で無機質な方かと思っていたけれど違う。この方は単に何も知らない真っ白な方なのだわ。
 スプーンを口に運び、もぐもぐと口を動かして飲み込んでは「おいしい」と、侍女に向かって告げるシャイナを、彼女は再び「私が守らなくては」と心に誓っていた。
 ――食べる喜びも知らなかったこの方に、この世界の素晴らしさを知って頂かなくては。
 大した量は食していなかったが、シャイナは満足そうに食事の手を止めた。満腹になったということなのだろう。
「お気に召していただいてよかったですわ。それはメリッシュという、臥雷ではどの家庭でも出る食事ですのよ。栄養も高いし、胃にも優しいのです」
 侍女は嬉しそうに、コップに果実ジュースを注ぐとそれもシャイナへ差し出す。
「ありがとう…あの…」
 シャイナはここにきて、昨日から世話をしてくれている侍女の名前を知らないことに気づく。
 今まで自分に仕えている侍女や侍従の名前を、シャイナは気にしたことはなかった。
 サラディンでは、乳母であった侍女以外シャイナに近づくことを許されていなかったからだ。
 ――乳母の名前さえ…そうえいば、呼ぶことはなかったな。
 常に傍にいるのは彼女だけだったから、名前を呼ぶ必要がなかった。
 自分を庇って死んでいった生まれてからずっと仕えてくれていた侍女の名前さえ知らなかった事実に、自分の罪深さを思い知る。
 だが、それさえも――あの侍女が死んだことさえも、凍った己の心は揺れ動きもしない。
 ――本当に罪深い。

「私は、露麗と申しますのよ、シャイナ様」
 シャイナが口ごもった理由を察した侍女――露麗は、己の自己紹介をした。
「露麗…ありがとう、露麗」
 そんな穏やかな時間を、破る声がそこに響く。
「何をしている」
 そこにいた人間全員が、ハッとしてその声の方向を見た。
「王…!」
 露麗をはじめとしたそこにいた侍女数名は、膝をつき頭を下げる。
「食事をしていたのか。露麗、お前の提案か?」
「はい。食欲がないシャイナ様には、自然の風を浴びて食事される方が少しは気分が変わってよいかと」
 露麗の言葉に、森羅はニヤリと笑う。
「確かにな…。シャイナ、食事はできたのか?」
「えっ…あ…はい」
 自分に話を振られると思っていなかったシャイナは、あわてて頷いた。
 森羅はシャイナに近づくと、細い顎に手をかけ上を向けさせる。
「ぁ…」
「ふん。顔色は昨日よりいいみたいだな」
 ――顔、色…?
 まさか、傍若無人で他人の機微など気にしそうにない森羅からそんな言葉を聞くとは思っていなかったシャイナは少し目を見開いて、思わず目の前の彼を見てしまった。
「…どうした? 何を驚いた顔をしている」
「い…いえ…」
 あまり表情を変えることのないシャイナのそんな顔に、森羅は何を思ったのかシャイナの腕を掴んだ。
「来い…」
「えっ…あっ…」
 強引に立たされ、引っ張られていく。
 中庭を横切り、綺麗に舗装された石畳の中を歩いていく。
 森羅の歩調は速く、シャイナは小走りでついていかなくてはならなかった。
 やがて場内の端にある建物にたどり着いた。
「李雷、いるか!?」
「はい…森羅様。どうされたのです」
「馬を用意しろ。でかける」
 王の気まぐれはいつものことで、厩舎で馬の世話をしている李雷には慣れたものだった。
「青雷、今日は機嫌がいいですよ」
 青雷とは、森羅の馬だ。
 他の馬より一回り以上大きく力強い馬だったが、気質が荒く乗るのは無理だと匙を投げられていた青雷を森羅は一目で気に入り乗りこなしたのだ。
 青雷も森羅を主人と認め、彼の言うことだけは聞いた。
 李雷が小屋の外に引っ張ってきた青雷は、サラディンへ侵攻した際も森羅を背に乗せて縦横無尽に駆けていた馬だった。
 森羅は青雷の背に乗ると、シャイナに向かって手を伸ばした。
「…え?」
 ここに来るまでで肩で息をしていたシャイナにとって、森羅が何を求めているかよくわからない。
「ほら、お前も乗るんだ」
「ど、どうすれば…いいのか…わかりません」
 戸惑うシャイナに、新羅は初めてシャイナが馬に乗ったことがないのだと思いだしたかのような表情をした。
「俺の手を取れ、足をそこにかけて…」
 シャイナはわからないまま森羅の指示どうりに動いてみる。
 手と手を重ねると、新羅はシャイナの細く白い手をギュっと握った。
 握らられた手は暖かく、そして大きくて、力強い。
 思わず驚いて、シャイナは森羅の顔を見てしまった。
「どうかしたのか?」
 何か知らないものを見てしまった子供のような表情をしているシャイナに森羅が声をかけると「い…いえ…」と彼は小さく答えた。

 森羅と李雷の手をかりて青雷の背に乗ったシャイナは、今まで見たことのない高さからの景色に思わず周りを見渡す。
「では、行くぞ。シャイナ…しっかり掴まっていろ」
 森羅と違って馬にまたがるような格好をしていなかったシャイナは横座りをして、両手を森羅の背に回してしがみ付く。
 森羅は片手でシャイナの腰をしっかりと抱き、もう片手で手綱を握っていた。
「森羅さまっ! どこへ行かれるんですかっ!! これから会議が――!!」
 背後から聞こえてきた綺良の声に、森羅は笑いながら答える。
「すぐに戻る。それまでお前が引きのばしておいてくれ!」
「なっ…!」
 茫然と立ち尽くす綺良が、どんどん遠のいていく。
 森羅とシャイナと青雷は、走り続けた。
 風を感じ、緑を感じ、自然の匂いを感じる。
 書物では知っていたが、実際に目と耳と肌で感じるのは全く違う。
 シャイナは森羅の腕に抱かれながらも、めまぐるしく変わる自然に魅入られたように見つめていた。
 そんなシャイナを森羅は満足そうに見ていたのだった。







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