8







 ――駄目、だ。
 呆然と森羅の背中を見送ったあと、シャイナの頭の中に浮かんだのは、ただそれだけだった。
 臥雷国・国王森羅。
 彼に抱かれるわけにはいかない。
 否。
 彼だけではない。
 己は人に肌を許してはならないのだ。
 シャイナは小さく頭を振る。
 肌を許せば、次には――。
 ぞっとした。
 己の血族が・・・血を分けた人を生み出す行為。
 それは、シャイナの中では許されざることであった。
 ――こんな穢れた血を、後世に残すわけには行かない。
 だから、もしサラディンの王となっても、決して跡継ぎを作る事はしないと決めていた。
 なのに・・・。
 自分の意思とは関係なく、あの王はシャイナを抱くと言った。
 必ず血を継ぐ人間ができるわけではない。
 両性の子は、子を作り難いと言われている。
 普通ではない躯だからだ。すべての作りが不完全でもあるのだから。
 それでも、過去両性が子供を産んだということは何例もあげられている。
 作り難いが、作れないわけではない。
 実際、シャイナの躯でも――子供を生める準備は整っているのだから。
「いやだ・・・駄目だ・・・許されない・・・」
 サラディンの汚物のような自分。
 天使? 笑わせる。
 背徳の行為の末作られただけだ。
 この血を流せば、腐臭がしてもおかしくない。
 サラディン代々の王族の妄執という名の。
 シャイナの父の。

「逃げ・・・なくては」

 窓の外には、まだまだ丸い形をした月が浮かんでいた。







「・・・はぁっ。はぁっ」
 萎える足を叱咤しつつ、シャイナは歩き続ける。
 何処にいけばいいのか。
 何処に向かっているのか。
 それさえも判らない。
 落ち着いて考えれば、逃げ出せるわけなどないのだ。
 ほぼ城から出た事のないシャイナが、外の世界を知るはずもなく。
 それでなくても、今いる城がどの国のものなのか。
 それさえも判らないでいたというのに。
 歩きながら、自問自答する。
 ――どうするのか。どうすればいいのか。
 答えなどでない。
 けれど『逃げなければ』という気持ちだけが先走っていた。
 シャイナが逃げだすとは思ってもいないのか、部屋のまわりには警備の兵もほとんど配置されていなかったので、城内から抜け出すのは、簡単だった。
 けれど、やはり表にはそれなりの人間が配置されている。
 人の少なそうな場所を選びながら歩いていると、城の奥から背後に続いている森へと足を踏み入れることができたのだ。
 城の背後は、大きな森だった。
 それで背後は守られているという城だったので、そこに警備兵の姿はほとんどいなかったのがシャイナには幸いしていた。
 本当に運がいい――としかいいようがないのだが。

 森の奥へ奥へと足を進めていく。
 城がどんどん小さくなって、シャイナは足を止めた。
 ガクガクと震える膝が、もう前へ行く事を拒否したのだ。
 生まれてこの方、外へ出たことも数えるほどで、ずっと城内で暮らしてきたシャイナは、初めてこれだけの距離を己の力で歩いたのだった。
 たかだか数キロも歩いていないのだが、それでもシャイナにとっては永遠とも思える距離である。
「どう・・・すれば」
 勢いで逃げてきたが、これからなど考えていなかった。
 自国は失われ、戻る場所などない。
「っ・・・」
 遠くで獣の鳴く声がする。
 それに恐怖を感じている――のを感じたシャイナは、己の醜態にこみ上げてきた笑いを止められなかった。
「私は・・・本当に愚かだ。死にたいと願いながら、近づく死に恐れる。考えもなしに逃げてきては、途方に暮れる――一人生きていく方法さえ、知らない。何をすればいいかわからない」
 虚無。空虚。何もない空っぽの入れ物。
 ――人形だな。
 そう評したのは、臥雷国、国王森羅。
 ただ数秒の対面で、彼はシャイナの本質を見切ったのだ。
 自分でさえわかっていなかったことを。
「あの王は・・・凄いな」
 存在自体が苛烈。
 生命のオーラに包まれていて、側にいるだけですべてのものに影響を及ぼすほどの存在感。
 あの人の指が触れたところから、熱が広がる。
 シャイナは思わず己の唇に指を伸ばした。
 ――そう。あの人の唇がここに触れた。
 まるで無の生き物に生を吹き込むように・・・。熱が入ってきて・・・。
 何も感じない自分に、自分でも判らない何かを感じさせる人。
 あの紅い瞳に見据えられるだけで、感じたことのない何かを感じることが出来た。
 自分が息をする人間だと教えられた気がした。
 サラディンで生きてきた間、あのように『生』を感じさせる人などいなかったから。
 自分のような作り物ではなく、生命を感じさせる美しさ。
 恐怖を感じながら、シャイナは目を奪われずにはいられなかった。

 グルルルルッ
 複数の足音と共に、シャイナの耳に獣達の唸り声が聞こえてきた。
「・・・ぁ」
 気がつけば、シャイナを囲むように十匹弱の野犬のような獣がいた。
 力のない生き物と判断したのだろう。獣はシャイナを貴重な食料として涎を垂らしながら狙っている。
 ――囲まれるまで気付かないなんて。
 なんて・・・無力な。
 シャイナはここで、獣達の胃袋に収まるのだろうか・・・と考えてみる。
 恐怖も感じるが、どこか他人事のような気もしている。
 作られた生命。作られた人生。
 その終わりに、似合いではないのだろうか。
 父達と同じように、臥雷の手にかかって死ぬのもよかったが。
 存在しない方がよかった己は、こうして闇に消えるのもありだと思う。
 グガァァ!
 一匹がシャイナに向かい飛び掛ってくる。
 本能がシャイナの躯を守ろうと、両腕で顔を覆い躯を丸くした。
「痛っ」
 獣の爪がシャイナの肩に刺さる。
 近くに生臭い獣の息を感じた。
 ――ああ、もう終わりなんだな。
 ぼんやりそう思いながら、シャイナは力いっぱい目を閉じた。

 ギャンギャン!
 思っていた痛みは訪れず、代わりに獣の鳴き声が耳元で響く。
 うっすらと目をあけると、シャイナの横には茶色の毛を靡かせた一匹の美しい獣がいた。
「お、前・・・」
 茶色の獣――狼は、威嚇の声をシャイナを襲った獣達に上げている。
 シャイナを襲い掛かった一匹は、首の部分を狼に噛み切られたのか、既に絶命していた。
 残りの獣達も、突然の狼の出現に戸惑いながらも、この勝負は己達が不利であることを悟ったらしい。
 ジリジリと下がっていくと、そのまま走り去っていった。
「・・・はぁ」
 大きく溜息を吐く。
 何が起こったか判らない。
 ただ判るのは、目の前の狼に助けられたということだけだ。
「お前・・・この前のヤツだろう?」
 痛みと絶望の朦朧とした意識の中で、体温という暖かさを教えてくれた獣。
 こちらに向けられた獣の目は赤い。あの時と同じ。
 狼は、低く唸っている。
 ――忘れてしまったのだろうか?
 今度こそ、シャイナを食す気なんだろうか。
 それもいい。
 見知らぬ獣に食われるより、この美しい狼の血肉となれる方が何倍も。
 シャイナはゆっくりと腕を伸ばした。
 食べられる前に、もう一度あの暖かさを感じたかった。
 体温というものを知らなかったシャイナに、初めてそれが暖かいものだと教えてくれたのはこの狼だったから。
 指が頬の毛に触れる。
 狼の髭が揺れた。
 だが、狼は身動きしない。
 唸ったままではあったが、襲ってくるそぶりは見せない。
 シャイナの両腕が狼の首にまわる。
 シャイナはゆっくりと己の身を狼に寄せた。
 首筋に顔を埋める。
 狼の唸り声は止まっていた。
「暖かい・・・やはりお前は暖かいね」
 ホッとする。
 なんだろう。やはり自分は死にたくなかったのか。
 それとも、恐怖の中から脱せて安心したのか。
 判らないが、ただ躯から力が抜ける。
「お前、怒っていたのか?」
 ふとそんな言葉が浮かぶ。
 無謀にもこんな森に迷い込み、獣に食われようとしていたことに。
 首筋に生暖かいザラリとしたものを感じる。
「くすぐったいよ・・・」
 ぺろぺろと狼はシャイナの首筋を舐めていた。
「ふふ・・・本当にお前は不思議だな。どうして私を助けてくれたんだ? 私が死にたがっている事など獣のお前にはお見通しだろう? それともその奥に私でさえ気付いていない死にたくないという思いまでも、お前は見透かしているのだろうか」
 狼から答えを得られるわけなどない。
 判っているが、シャイナは言葉を続けた。
 まるで自分に問いかけるかのように。
「城の中しか知らなかった私が、こんなところに逃げてきて・・・どうすることもできない。わかっていたけれど、私は――逃げだすしかなかったんだ。死ぬとわかっていても」
 狼が息をするたびに、上下する背中。
 息が首筋を掠める。
 生きている――生命を感じる。
「王が・・・臥雷王が、私を妻にするという。それは、仕方のないことだと。国と国との話でもあるのだから――。両性が公表されるのは辛い事でもあるが、妻という立場だけならばいいんだ。他に女性を何人でも娶ってくれれば。けれどあの方は私を・・・私に・・・」
 言葉にならない。
 怖い。怖い。怖い。
 そのあとを考えるだけで、躯が震える。
「あの方が嫌なわけじゃないんだ。行為自体も・・・怖くないというか私にはわからない。そういう衝動が自分の身に起きた事もないから――けれど」
 ギュッと腕に力を入れる。
 狼は苦しいだろうに、シャイナを嫌がらなかった。
 シャイナは紡げなかった言葉を飲み込み、そして小さく囁いた。

「許されないことなんだ・・・私は・・・」



 月は木々の間から、一人と一匹をひっそりと照らしていた。









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