炎のような恋だった。
 燃え上がって、天まで昇るほどに燃えて――そして、燃え尽きた。
 本気だったのだ、自分は。
 けれど、彼女は違った。
 だから、あの場に来てくれなかった。
 そう、思っていた。ずっと、ずっと――。

 それは幼すぎた自分の過ち。
 彼女の本心は、ずっとずっと彼女自身が告げてくれていたというのに。
 私は――何も知らなかった。
 知ろうとしなかったのだ。







〜ハジマリの物語〜








 高校1年生の夏休み。
 俺は、父親の持つ別荘の1つに来ていた。
 父にも母にも内緒で。
 ちょっとした自立をかねた冒険のつもりだった。

「はぁ、使えない?」
 幼い頃何度も使った別荘。
 管理している老夫婦も、孫のように自分を可愛がってくれたから――とてもお気に入りだったのだ。
「ええ・・・あの、先客がいらっしゃいまして」
「・・・親父じゃないよね。あの人、東京に居たもん」
「いえ・・・その・・・」
 歯切れの悪い婦人の言葉に、俺は苛立った。
 親父の持ち物なのに、先客がいるなんて・・・。
「とりあえず、泊まる所を用意します。ここは、誰が来ても泊めないようにというのが――旦那様のご命令なのですよ、坊ちゃま」
「――親父の?」
 俺は、ピンッときた。
 既に16歳を迎えようとしていた俺は、大人達の事情というモノを知っていたから。

 ――親父の愛人がいるんだ。

 俺の父親は大企業の社長として尊敬に値する人ではあると思うが、公然と愛人を何人も囲っているという所は、ハッキリ言って納得も尊敬も出来なかった。
 だからといって、母親がかわいそうというのとも、また違うけれど。
 母は、自分が一番目立ってチヤホヤされていなければならないという、まるでお姫様のような人だ。
 なので、もちろん家庭などを顧みる人ではないし、プライドだけが高い扱いにくい女性だという事を、俺はいつのまにか理解していた。
 他の兄弟よりも俺を可愛がるのは、容姿が一番自分に似たという事と、成績が一番いいという事だけなのだろう。
 常に両親の居ない家。
 結婚してもあんな夫婦にだけはなりたくない、と――俺は常々思っていた。




「堂々と、愛人を別荘に囲うなよな・・・」
 思わず愚痴ってしまう。
 せっかくの夏休み。
 あの家族だけれど家族ではない――けれど、名ばかりが先行して自由がない実家を飛び出して、羽を広げたというのに。
 管理人の老夫婦が手配してくれた近くの旅館で、俺は身を落ち着けた。
「あー、暇」
 特に何か目的があって来たわけでもない。
 何か衝動的な理由だった。
「海。海に行こうっと」
 あの別荘を選んだ最大の理由は、海に近いことだった。
 それなら、夏休みの間毎日海に通って飽きないだろうと思ったから。
 紹介された旅館からも、海は近かった。



「キレイだなー」
 既に日が落ちそうになっている。
 オレンジ色の太陽が、海の向こうに沈もうとしていた。
 昼間は大勢いるであろう砂浜の客は、もう殆どが家路についたのかまばらだ。
「明日から、泳いで泳いで泳ぎまくってやる」
 砂浜を歩きながら、海に向かって叫んでやる。
 そうすれば、このちょっとしたイライラも解消されるかもしれない。
 そんな時、小さな突風が吹き、俺の前に大きな麦わらで出来たつばの広いボウシが舞い落ちてきた。
 思わずそれを手に取ると、遠くの方から「すみませーん」という声が聞こえてくる。
 振り返ると、犬のリードを手にした女の人がこちらに向かって手を振っていた。

「ありがとうございます。さっきの風で飛んでいっちゃって・・・」
 小さな犬と一緒に、彼女は俺の方へと来て頭を下げた。
 俺よりたぶん・・・5歳から10歳ぐらい年上の大人な女性。

 ――すごい、キレイだ。

 学校の同級生達などとは比べ物にならない程の、魅力的な彼女に俺は息をのんだ。
「い、いえ・・・偶然、俺の前に落ちてきたから」
 何か会話をしたくて、これで終わらせたくなくて、俺は必死に話題を考える。
「犬・・・可愛いですね」
 考え抜いたのすえの台詞が、これっていうのが情けない。
 それでも彼女は、ニコリと笑って「家の前にいついちゃって・・・。餌をあげちゃったら懐いてしまって」と小さな犬の頭を撫でた。
 俺が手を出すとじゃれついてくる子犬は、まだまだ遊んで欲しい年頃なのだろう。
 体中をむちゃくちゃに撫でてやると、お腹を見せてもっと遊んでくれとせがむ。
「あら、この子ったら」
 俺と子犬がじゃれあってるのを、彼女は優しい視線で見ていた。

「この近くに住んでるんですか?」
「・・・ええ」
 小さく微笑んだ彼女に、俺は決死の覚悟で聞いてみる。
「あ、明日もコイツ散歩させに来たりします?」
「そうね・・・。これくらいの時間には・・・」
「お、俺、この近くの旅館に泊まってるんです。明日もまた来ていいですか? こいつと遊んでも――」
「ええ、ぜひ。この子も貴方に遊んでもらえて嬉しいみたいだわ」
 ――やった!
 俺は心の中でガッツポーズを作った。
 明日も彼女に会える。
 それだけで、舞い上がるように嬉しかったのだ。


 それから、毎日のように俺達は夕方の逢瀬をくりかえした。
 逢瀬というか――単に、子犬を挟んで日暮れから日が落ちるまで、本当にどうでもいいことを話すのだ。
 俺は彼女に夢中で――会う度に惹かれていくのを止められなかった。



「お前、昨日の夕方――女の人と喋ってただろ?」
「え?」
 夕方は彼女と会うという大切な時間だったが、それ以外――昼間は本当に暇で。
 毎日海にいってはブラブラしている俺に声をかけてきたのが、この海の家で働いていた和彦という男だった。
 ――暇なら、うちで働かないか?
 人手が足りなくて困っているという彼に、俺は頷いていた。
 バイトというのも、1つの人生経験としていいだろう――と、思ったからだ。
 自分が世間でいう『おぼっちゃま』と呼ばれる人間で、世の中の道理を知らないという事を俺は知っていたから。
 そして、将来瀬野グループという大企業を継ぐ人間として、そういう経験は決してマイナスにならないことを判っていたから。

「犬をつれた女の人だよ・・・」
「・・・ん」
 和彦の言葉に、俺は肯く。
 別に、後ろ暗いところは無かったから。
「どんな関係なんだ?」
「ど、どんなって・・・何もっ・・・」
 単刀直入に聞いてくる和彦の言葉に、思わず詰まってしまう。
 彼女との仲は何も進展していない。
 ただ、俺の募る恋心が増えていく一方なだけだ。
「お前、あの女の事好きなのか?」
「え・・・あの・・・」
 動揺した俺は、バレバレだったらしい。
 和彦は大きく溜息をつくと、ゆっくりと頭を横にふった。
「あの女はやめておけ」
「え・・・?」
「悪いことは言わない。やめておけ。お前、騙されてるだけだ」
「なっ、どういう事だよっ!!」
 突然の和彦の言葉に、俺は怒りがこみ上げた。
 彼女が俺を騙している――なんて、ありえないことだ。
 穏やかに微笑む彼女・・・どこか憂いを秘めている彼女に笑って欲しくて、俺はいつも必死に面白い話をする。
 そんな俺をも彼女はわかってくれていて、面白くも無い話に一緒になって笑ってくれるのだ。
 
 そんな彼女が俺を騙しているなんて、ありえない――。

「おふくろから聞いたんだけど、あの女――どっかの妾らしいぜ?」
 和彦の言葉が、理解できない。
「どっかの金持ちに囲われてるらしい。だからお前がいくら好きになっても――」
「・・・黙れっ」
 聞きたくない。
 聞きたくない。
 聞きたくない。

 自分のことを話してくれない彼女。
 名前さえも――俺は知らない。

「俺はお前の事を思って忠告してんだからな・・・」
「・・・」
 和彦が心配してくれているというのも、わかる。
 けれど、聞きたくなかった。
 聞きたくなかったのだ。




「今日はどうしたの? 沈んだ顔してる・・・」
 砂浜で、二人座って夕焼けを見ていた。
 ボールを投げてやると、チビ――子犬の名だ――は、必死にそれを追いかけていった。
「・・・名前、なんていうの?」
「え・・・?」
 突然の俺の問いに、彼女は驚いたように俺を見た。
「俺は、基・・・あなたは?」
「そういえば・・・名乗ってなかったわね。それさえも気付かないで、あなたとのお喋りに夢中になっていたって事ね――私は咲子というのよ、基」
 聞けばあっさりと教えてくれた彼女に安堵しつつ、俺は意を決して彼女へと自分の思いを告げた。
「俺・・・貴方が、咲子さんが好きだ」
「・・・!」
 俺の告白に、彼女は驚いた顔をした。
「一目ぼれ――だったんだ。毎日会うごとに好きに・・・」
 彼女の指が延びてきて、俺の指に触れた。
「それ以上、言っては駄目よ?」
「どうしてっ!」
「貴方みたいな若い人が、こんなオバさんにそんなこと言っちゃ駄目」
 ごまかすような彼女の言葉に、俺はカッとした。
「咲子さんだって、若いじゃないか?! 若いのに・・・ずっと、1人で。誰を待ってるの? 誰に待たされてるの? 咲子さんを独りぼっちにしてるヤツなんか――」
 言ってしまって、後悔した。
 俺は言ってはいけないことを言ってしまったのだと。

 気付いていた。
 和彦に言われる前から。
 彼女は、誰かを待つ生活をしているという事を。
 土曜日だけ、彼女が砂浜に現われないという事を。

「・・・私は」
「ゴメン。ゴメン――咲子さん、俺・・・」
 彼女が口を開く前に、俺は謝った。
 彼女を苦しめたくないのに。
 彼女を傷つけたくないのに。

 俺が、彼女を傷つける言葉を口にしてしまった。

「あなたは優しいのね――基君」
 初めて名前を呼ばれた。
 それだけで、心臓が高鳴る。
「貴方は知ってしまったのね。私がお金持ちの愛人をしているという事に・・・」
「ど、どうして・・・?」
 理解はしていたけど、彼女の口から語られてしまうと・・・やはりつらかった。
「どうして・・・か。私は芸子だったの」
「芸子?」
「そう、京都で・・・ね。芸子をしていた所で、あの人と出会った。あの人は私を気に入って愛人にならないか――と」
 遠い目をしながら語られる彼女の真実。
「それで・・・なったの?」
「断れなかった・・・それが真実かもしれない。あの人は大物で・・・私が断れば、お世話になっていたお店にまで迷惑をかけてしまうことになったから」
「そ、それじゃあ・・・咲子さんが犠牲になったってことじゃ・・・!」
 思わず声を荒げてしまった俺に、彼女は静かに微笑む。
「犠牲――では、ないのよ。こうして私は、あの人にお手当てを貰って何不自由ない暮らしをしてるし・・・」
「けれど、けど! 咲子さんはその男を愛しているの!?」
「・・・愛している――とは、言えないわ。けれど、情はあるかもしれない。あの人の言う事に従う程度には」
 悲しい微笑み。
 そんな顔、幸せじゃない。
「咲子さん、つらそうだ。全然、幸せそうじゃない。何不自由ない生活っていうけど、自由がないじゃないか・・・!」
 俺の言葉に、彼女は少し驚いた顔をした。
「自由・・・」
「だってそうだろ? 咲子さんは、望んでるの? こんな生活――こんな」
「――わからない、わ」
 そういって俯いてしまった彼女を、俺は思わず抱きしめた。
「基君・・・」
「あなたにそんな顔させるヤツなんて、認めない。俺は咲子さんが好きだ。貴方に幸せに笑っていて欲しい・・・。貴方がそんな男の愛人で幸せだっていうなら、俺は口出し出来る立場じゃない・・・けど」
 腕の中の人は、想像していたより華奢だった。そして、想像していたよりも柔らかかった。
「けど、咲子さんは幸せそうじゃない。だったら・・・だったら、俺が・・・!」
「基君、駄目よ・・・そんな」
 俺の腕の中で頭を横に振り続ける彼女。
 けど。
 けれど。
「俺が幸せにしてあげる。咲子さんだけを愛してあげる。だから咲子さんも俺を選んで。俺を好きになって・・・!」
 勝手な言い草だと思う。
 けれど俺は必死だったんだ。

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思おもひを

 俺の胸の中で、彼女は口ずさんだ。
 その言葉は日本語だったけど・・・。

「咲子さん・・・何・・・? それ」
「さぁ、宿題よ・・・」
 そういうと、彼女は俺を軽く押しのけた。
 呆然としていた俺は、彼女のひ弱な力だけで、腕の力を緩めてしまう。
 俺の腕から離れた彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「咲子さん・・・」
「明日――も、来るわ。それまでにさっきの意味が判れば・・・私の気持ちも判るはずよ」
「え・・・」
「じゃあね、基君・・・」

 そいういと、彼女はチビと一緒に去って行った。




「かくとだに・・・なんて言ってたっけ・・・わかんねぇ」
 頭を抱え込みながら、俺は宿泊している宿に戻った。
 もう2週間も泊り込んでいる俺は、顔なじみだ。
「どうしたんですか? 頭を抱え込んで」
女将さんが、座り込んでいた俺の顔を覗き込んできた。
「女将さん。かくとだに・・・なんとかこんとかっての知ってますか?」
「は・・・?」
 俺の言葉に、女将さんも意味が判らないという顔をした。
「だよね。意味ワカンナイや・・・。うー、明日までの宿題なのに・・・」
「それって、百人一首じゃないんっすかね?」
 背後から、番頭の笹本君が声をかけてきた。
「百人一首?」
「ええ、確か――かくとだに、えはやいぶきの・・・なんだったっかな。この前彼女に本貰って呼んでたんですよ、俺。持ってきますね」
 そういうと、彼はパタパタと走っていった。
 すぐに戻ってきた彼は、俺に1冊の文庫本を渡してくれた。
「口語訳も載ってて、読みやすいっすよ。俺読んだから、貸してあげます」
「あ、ありがとう・・・!」
 俺は笹本君に借りた本を持って、部屋に戻る。
 さっそく、彼女が言っていた言葉を探し出した。

「えーと、えと。あった! これだ・・・『かくとだにえやはいぶきのさしも草さしもしらじなもゆる思ひを』・・・藤原実方朝臣作だぁ? 意味は――」

 俺は、息を飲んだ。
 何度も、その歌の意味を目でなぞる。

 あなたを好きだと言うことさえ、言うことができないのだから。 ましてや、伊吹山のさしも草が燃えるように私の思いの火がこんなにも激しく燃えているとは、あなたは知らないだろう。

 彼女は言った。
 この歌の意味が判れば、私の気持ちも判るはずだと。
 彼女の気持ちが――本当にコレだというのか。
 自分の気持ちは、一方通行ではない?

 俺はその夜、興奮して眠れなかった――。





「咲子さん――」
 彼女はその言葉通り、来てくれた。
 俺は思わず彼女の元へとかけよって、その細く小さな躯を抱きしめる。
「昨日の言葉は本当? 俺、本気にするよ・・・」
「・・・わかったの?」
 驚いた表情をした彼女の額に、俺は自分の額をくっつけた。
「藤原実方朝臣の歌だよね。百人一首の」
「・・・あなたがわかるとは、思わなかった――」
「もう、言った言葉は取り消せないよ。俺は、信じたから――」
 そう言った俺に、彼女は小さく頭を横に振った。
「駄目・・・貴方は、まだ若くて・・・私は愛人で・・・」
「そんなの関係ない。俺は、貴方が好きだ。咲子さん――」
「基君・・・」
「貴方だってそうだよね? あの歌の意味は、貴方の心は激しく燃えているって。俺が好きだと」
「・・・」
 黙りこんでしまった彼女を、俺は更に強く抱きしめる。
「好きだ、好き、好きだ、咲子さん。だから貴方も言って。本当の気持ちを――」
「・・・・・・」

 小さな声で告げられた言葉。
 俺は喜びのあまり、更に強く彼女を抱きしめたのだった。



 離れがたくて。
 彼女を帰したくなくて。
 俺は、彼女を自分が泊まっている旅館へと誘った。
 一目の付かない裏口から入って、ずっと泊まっている部屋へと。
 そして俺達は、自然に躯を重ねた。
 彼女の躯は、甘く、柔らかく――俺は夢中になった。





こぬ人を まつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
「咲子さん、この歌好きなの? でもこれって切ないね・・・」

 彼女と布団の中で戯れながら、百人一首を読む。
 そんな時間が続いていた。
 海にも行かず、旅館の人間も近づけさせず。
 ただ、二人きり部屋にこもって――ずっと、布団の中で。
 そんな怠惰で幸せな時間。

「そうね。来てくれない恋人をずっと待ち続ける歌だから――」
「俺は、待たせないよ? 一番に咲子さんの所へ飛んでいくから」
「本当・・・?」
「ああ」
 重ねる唇は、甘い。
 俺は、幸せで――現実が見えていなかった。

「咲子さん、あと2年待って。そうしたら結婚しようよ」
「え、何を――」
 俺の言葉に、彼女は本当に驚いた顔をした。
「俺、本気だよ? これまで咲子さんほど好きになった人いないし。これからも好きにならないと思う。だから、結婚して欲しい・・・。まだ16歳だから結婚できないけど、18歳になったらすぐ、籍を入れよう」
「何を言ってるの、基。落ち着いてちょうだい。そんなこと・・・」
「落ち着いてるし、本気。俺、咲子さん以外に考えられないから――咲子さんを、俺だけのモノにしたい、そればっかり考えてる」
 彼女の端々に見える男の影。
 それが、俺に焦りを与えていた。
「既成事実、作っちゃえばいい。こうして、咲子さんを抱いて抱いて・・・子供が出来れば、きっと誰も反対できなくなる。俺の親は黙らせる。今だって、俺に関心も興味も持ってない親なんだから」

 ――単に長男というだけで、会社を継ぐ人間としてだけ、価値を見出している父親。
 ――自分の分身として、やはり会社を継ぐ人間として価値を見出している母親。

 結婚相手に、文句など言わせない。

「基・・・」
「ね、俺の子供――産んでよ。俺と咲子さんの子だよ? 絶対可愛い。俺、凄く可愛がるよ・・・愛情いっぱい注いでやる。その子と咲子さんと・・・暖かくて楽しい家庭を作るんだ。毎日、絶対楽しいよ?」
「基・・・」
 俺の言葉に、彼女はキュッと俺の背へと両腕を回して、優しく抱きしめてくれた。
「子供の名前、何にしようか・・・。男の子でも女の子でもどっちでもいい。出会った場所にちなんで、海に関係ある名前なんて、どう? ね、咲子さん――」
「も、とい・・・」
 優しい彼女の唇が、俺に触れる。
 暖かくて、幸せ。
 だから、必死に現実から逃げていた。
 逃げようとしていたんだ、二人とも。





 夢は覚める。
 絶対に。
 それは、突然訪れた。

「基君・・・」
「ああ」
 番頭の笹本君に声をかけられ、振り返った。
 彼は少し思いつめた顔をしていた。
「君の部屋にいる人、偶然見てしまったんだけど・・・」
「・・・・・・」
 それ以上の言葉は聞きたくなくて、俺は彼に背を向けた。
「あの人、君の恋人なのかい?」
 それでも声をかけてくる彼に、俺は背を向けながら肯いた。
「そうだよ」
 間違いではない。
 彼女は俺の恋人。
「で、でもあの人・・・丘の上の別荘の持ち主の愛人だって・・・」
「・・・え?」

 番頭の笹本は、知らない。
 俺が、瀬野グループ社長の息子だという事を。
 そして、あの丘の上の別荘の持ち主が、瀬野グループ社長・・・だ、という事を。



「さ、咲子さん――!!」
「・・・どうしたの?」
 部屋の外に広がる庭園を見ていた彼女に、俺は慌てて近づいた。
「咲子さんって・・・普段、何処で生活してるの?」
「・・・何処って――」
 何を言っているのか判らないという表情をした彼女に、俺は再び聞く。
「瀬野・・・忠雄って、知ってる?」
「・・・っ」
 彼女の表情が変わった。
 それが、真実。
 それが、事実。
「丘の上の別荘に囲われている愛人って・・・咲子さん・・・だったんだ・・・」
「基・・・君・・・」

 彼女は、知っていた?
 いや、知らなかったんだろう。
 だからこうして戸惑った顔をしているんだ。

「咲子さん、明日土曜日だよね? どうするの・・・?」
 週末ごとに通ってくるという、咲子を囲っている男。
 その男は――。
「・・・それは・・・」
「ねぇ、咲子さん。逃げよう、二人で」
「え・・・?」
 目を見張る彼女の肩を、俺は掴んだ。
「ね? 二人でどこか行こう? 俺、働くし。咲子さんさえいればいい――」
「どうしたの? 急に・・・」
「帰したくない。もう、離したくない。親父になんか、渡したくない――」
「お・・・や・・・?」
 隠していても仕方の無い事なのかもしれない。
 説得するには、事実を話すしかない。

「俺の名前は、瀬野基・・・。瀬野忠雄の長男なんだよ」
「なっ・・・!!」

 言葉を失った彼女を、俺は抱きしめる。

「あんな不実な男、捨ててしまえばいい。咲子さんになんか、勿体無いよ。俺は俺なら、咲子さんだけを愛してる。咲子さんだけだ――」
「なんて・・・事なの・・・」
 彼女はその場に崩れ落ちた。
「私は・・・知らなかったとはいえ、あの人の息子と・・・」
「確かに、俺は瀬野忠雄の息子だけど、貴方の前では、基という1人の人間だよ? 親父も会社も何も・・・関係ない」
「基・・・」
「親父になんか、咲子さんを渡せない。触らせたくない。ねぇ、逃げよう? 二人なら、つらくてもなんとでもなる。俺は咲子さんだけがいればいいんだ・・・」
「基・・・駄目・・・駄目よ・・・貴方は将来、瀬野グループを継ぐ人間でしょう? 私なんかと・・・」
「そんなの、どうだっていい。あいつらは、親は、俺を瀬野グループを継ぐ人間としか見ていないけど、俺は俺の幸せは、俺自身の手で掴む。そして、それは瀬野グループを継ぐ事じゃなくて、咲子さんと一緒に生きることだから――」
「あなた・・・」
 ポロリと涙をこぼした彼女の頬に触れる。
「ね、行こう・・・二人で、幸せになるんだ」

 しばらくして、彼女はコクリと肯いた。







 別荘に戻って仕度をしてくるという彼女を、俺は見送った。
 もう離したくないと思ったけれど、明日の朝一の電車に乗る約束に、胸を躍らせていた。
 そして、翌朝。
 俺は、待った。
 ずっと――日が暮れるまで。
 訪れることの無い彼女を・・・。



「基坊ちゃま」
 日が暮れても駅のホームにいた俺に声をかけてきたのは、別荘を管理している老夫婦。
「いくら待っても、彼女は着ません・・・」
「・・・!」
 なぜ、この二人がそれを知っているのだと・・・俺は二人を見た。
「旦那様が別荘に来ました。そして彼女別荘にいます。その意味が判るでしょう・・・」
「嘘だ・・・あの人は、来てくれるって・・・二人で・・・」
 俺の言葉に、二人とも静かに頭を横に振った。
「忘れなさい。忘れるのです。このまま、次の電車でご実家に帰るのですよ・・・そして、夏の夢は忘れてしまうのです」
「・・・・・・」

 その言葉の意味は。

 判ってる。
 判っていた。
 今日、ずっとずっと考えていたから。
 彼女は来ない。
 俺より、父親を選んだのだと。
 それでも、信じたくなかった。
 昨日までの事を、夢だとは思いたくなかったから――。

「・・・坊ちゃま」
「愛してるって言ったんだ・・・」
「・・・」
「愛してるって言ったのに・・・」

 どうして――?
 どうして?

 いくら考えても、答えは出ない。
 それでも、判っているのは。
 俺は、彼女に振られたという事。









〜エピローグ〜




 そのまま、実家に帰り、私はあの夏の事を忘れる努力をした。
 夢だと――。
 父親は何も無かったように私に接したし、母親は相変わらず私を自分の分身のように扱った。
 そんな日々の中、私は心を凍らせた。
 両親への反抗も、何もかも、全てがむなしくなったから。
 父の思い通りに動き、母の思い通りに動く・・・そう、まるで人形のように。
 それでも、父から与えられた妻は、優しく私を包んでくれて、凍った心が少しずつ溶けていく。

「ハジメマシテ」
 目の前に現われた「彼」に、私は息をのんだ。
 知っていた。
 彼女が、父親との子を産んだ事は。
 それでも、「現実」をこの目で見た衝撃。

 それほどまでに、「彼」は「彼女」にソックリだった。
 15年前の夢が、目の前に現実として、立っていた。

「私の息子である渚だ。今日からこの家に住まわせる」
 父の言葉に反論したのは、ヒステリックに叫んだ母だけ。
 けれど、母の言葉は聞かれる事なく、「彼」は混乱した母に包丁を向けられるまで、同居する事となったのだ。

 私は――目を反らした。
 反らし続けた。
 母が「彼」に何をしているか、薄々感じていたのに。
 あの時の気持ちを思い出すのが、怖かったのかもしれない。
 妻と息子との穏やかな日々が崩れ去るのを恐れたのかもしれない。
 いや、それ以上に――「彼」という存在が、「彼女」が私より父を選んだという事実を突きつけているという事を、認めたくなかったのだ、未だに。





 「彼」と出会って3年間。
 すぐに、全寮制の桜華学園へと入れられた「彼」とは、顔をあわせる事はなかった。
 妻や息子から時々出る「彼」の話に、耳を傾ける程度で、接点などなかったから。
 「彼」が卒業するにあたり、母と取引したらしい――と、聞いた時は少し驚いた。
 「彼」はあからさまに、母を毛嫌いしていた。
 いや――瀬野の家を毛嫌いしていたから。

「もう、会わない事を願ってますよ。俺もね」
 部屋から聞こえてきた「彼」の声に、私は少々驚いた。久し振りに「彼」の声を聞いたからだ。
 そうか、「彼」がアメリカに発つ日なのか――と、思い直し部屋へと入る。
 部屋には、「彼」とそして弟の健二がいた。
「基兄さん・・・」
「・・・・・・」
 私の姿に、健二は驚いた顔をした。
 「彼」はその冷たい眼差しを、私にも向けてくる。
 「彼」は、「彼女」にそっくりではあるが、それでもあの柔らかい優しさは無く、男の強さを感じる。
 そしてやはり「彼」を見ると、「彼女」を思い出してしまう私は、先に目をそらしてしまった。
「それでは、俺は行きますので。せいぜい大好きな父親とやらの役にでも立って下さい。俺にはもう関係ないんで」
 冷たい目と冷たい台詞を健二に投げかけた「彼」は、部屋を出て行こうとする。
 その腕を、健二は掴んだ。
「今まで、親父に色々与えて貰いながら、関係ないだって? 図々しいにも程があるぜ!」
「与えて――? あの男に、俺は与えられたものなど1つも無いですよ? 奪われたものと押し付けられたものしか、ね」
 鼻で笑う「彼」に、健二は胸倉を掴んで殴りかかろうとする。
「やめないか」
 私は思わず二人を止めた。
 20歳を越した健二の子供っぽさに呆れつつも、「彼」の言葉の端々にこの「瀬野」を蔑み父を憎んでるという事が感じ取れて、少し恐ろしい気持ちになった。

 ――私の知らない間に、「彼」の「彼女」のそして父親に、何があったのだろうか。
 今更、私が思い悩んでも仕方の無い事なのだが・・・。

「けっ、せいぜい親父が名付けたにしては女っぽい名前と、売女に似たお綺麗な顔で、アメリカン達にもてはやされて来いよっ」
「健二っ!」
 「彼女」との縁が切れたとはいえ、「彼女」を貶める言葉は、私には許せなかった。
 叱責した私に驚いた顔を見せた健二に、今度は「彼」が掴みかかり、そして殴り倒した。
「渚っ・・・」
「俺の名前は、あの男がつけたんじゃない。母さんがつけてくれたんだ。それに、母さんを悪く言うヤツは――誰であろうと許さない」
 怒りを露わにした「彼」は、更にその美しい容姿を輝かせたように思えた。
 思わず見惚れる私達に背を向けて、「彼」はそれだけ言うと出て行った。
 それきり、「彼」とはもう――会わないのだと、私は思った。

 だが、私の心に何かが引っかかっていた。
 ずっと。
 それは、ずっと――。

 なぜ、私は――「彼」のDNAを調べようという気になったのか。

 「彼」の言葉。
 名前。
 「彼」の名前。
 「彼女」がつけたという、彼の名前。


 結果を知り。
 私は真実を知った。
 「彼」が――渚が、私の息子だという事を。


『出会った場所にちなんで、海に関係ある名前なんて、どう? ね、咲子さん――』


 そう言ったのは、自分。
 そして、それを守ってくれた「彼女」

 「彼女」は何を思い、こうしてその名前をつけたのか。
 今となっては、何もわからない。
 ただ、「彼女」は私が望んだとおり――与えてくれたのだ。
 私と「彼女」の子供を。

 知った時には、既に「彼女」はいなかった。
 「彼女」は私に与えてくれたのに、私は「彼女」に何も与えれなかった。

 だから、私は誓ったのだ。
 「彼」に与えれるだけのものを与えようと。
 「彼女」が与えてくれた「彼」には、全てを受け取る権利があった。
 瀬野の全てを――。
 
 だから――
 父が「セノ・エンタープライズ社」の社長職に誰をつけるべきか迷っていた時、私は耳元で囁いた。

「渚は――どうか?」と。






 そして、物語は始った。




 


2005.5.10

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